ミスター
レインマン


「………。」
「…何だよ」
「いや、何の罠だろうと思って」


衝動的に抱き寄せればは、訝しげに眉根を寄せてそう言い切った。


「失敬な奴だな」
「だって、ねぇ?」


間近でくすくすと涼やかな声を立てて笑うサユリをしっかりと腕に収める一方で、
罠か…と、その他意の無い台詞を内心で自嘲まがいにも反復する。
じくり胸の中心が痛んだのはおそらく、
哀切といったそんな一方的で身勝手な感傷によるものなのだろうと、
やはり心の中でだが無様な己を嘲笑でもって笑い飛ばした。


「まぁいいけど」


の傍に居れば、世界は鮮やかだった。

八千穂と3人つるめば、不本意でこそあれ楽しかった。
つまらないことにも時に声を上げて笑った。
経由にも、仲間なんて古臭い呼び方で繋がれた奴らと居るのもそれほど悪くはなかった。
穏やかな毎日だった。
平穏だった。
しかしそれは今までに無い形の平穏だった。
穏やかで、けれど些細ながらも変化に富んだ平凡な日々。
笑って、怒って、驚いて、悲しんで。
感情の起伏が波打ち曲線を紡ぐ、そんな毎日。
それまでは停止した心電図のような線を描いていた自分の感情が、
という存在を得て、ふいに脈を打ち出したのだ。
そう俺は、と居て久方ぶりに自分が生きているのだということを、
自分も一応生きているのだという事実を久しく忘れていたことを思い出したぐらいだ。


「それに、罠なら大歓迎」
「大した《宝探し屋》だな」


まんざらでもなかった。
この平穏がこれからも続けばいいと、そんな不毛な願いさえ抱いた。
それはああもしかしたら自分は救われているんじゃないかと、
そんな馬鹿げた妄想まで抱くようになった愚かな思考の末路だ。
しかしそれすらも悪くはないなんて一種ぞんざいに開き直って、
あたかも幸福じみた充足感に眩い錯覚を覚えることを良しとした俺は、
その都度懺悔にも似た、はたまた悔恨にも似た不快な想いを胸に内に抱え込むハメになった。


「罠っていうのはね、一度引っ掛かってみるのが一番仕組みを理解し易く確実なのよ」


いつかは手放さなければならないと判っているのに。
自分の手か、他人の手か。
おそらくは自分のこの手に掛けなければならないと判っているのに。
なのに俺は。
俺は、迂闊だったのだ。
深入りはしないはずだったのに。
だというのに気付いた時には既に時遅く、相手に執着を覚えるようになっていて。
今ではもはや確固たる独占欲なんてものを抱えるまでに至っている。


「罠を仕掛け返す参考にもなるしね」
「仕掛け返すってお前な…」
「ふふ、例えばね」


そう、立ち竦んでいるんだ。
の存在に。
を失うという恐怖に。
しかしだからといってを止めることをしなかった自分。
今だって引き止めるつもりのない自分。
時に既視感が、あの温室での光景が脳裏を過ることさえったというのに。
ただその隣を占めていたくて、常にその傍らへと在りたくて。
を誰とも共有したくなくて。
独占したくて。
それだけのために最初から見えていた"その時"まで、共に歩むことを選んでしまった。


「─── I need you.」


そして。
他人の手に掛かるぐらいならばいっそ、と。


「好きよ、甲太郎」
「…ったく、どんな罠だよ。…恥ずかしい奴」


遠くはない未来、いつかは必ずやって来るその時。
お前か、生徒会か。
皆守甲太郎か、生徒会副会長か。
俺はきっと両者のどちらも前者を選ぶことはできないのだろう。
選ぶべき選択肢は、お前がここに来るまえから既に確定していたのだから。
そしてお前の傲慢で善良な選択をもってしてもそれを覆すことはおそらくできない。

けれど。
それでも。
否、だからこそ。





「ねぇ、甲太郎は?」





遠くない未来、いつか"その時"が来るまではどうかこのまま。





「───…俺もだ」





こうしてお前の傍らに"甲太郎"として居させてくれ。





「罠でも、嬉しい」





そして然るべき時には俺を、お前の隣からその手で消し去ってくれ。


彼女は罠と判った上で君の腕の中へと飛び込んだのだよ愚かな男よ。


image music 【 終列車 】 _ 椿屋四重奏.