光転世界


「甲太郎、マーマレード取って」
「………」


しっかりとした男の手が、その掌にすっぽりと収まってしまうような瓶に掛けられる。
持ち上げられたそれは、待ってましたとばかりと伸ばされていた、
細かな古傷だらけの女の掌へとぽんと乗せられた。
白くしなやかで、けれど細かい古傷だらけのその手。
瓶から手、手から女の顔へと視線を巡らせる。
目が合う。
が手放しにもにっこりと笑った。


「ありがと。
 やっぱりトーストにはマーマレードよねー。
 あ、もしかして甲太郎はイチゴ派?
 でなければラズベリーとかルバーブとか…まさかカレーバター派とか言わないわよね?」
「………」
「今、『カレーバターなんてあるのか』とかちょっと惹かれたでしょ」
「う、うるさいっ。
 朝飯ぐらいもっと静かに食えないのかよ」
「あら、無言の食卓なんてそれこそ味気無いじゃない?」


全くだ。
反論の余地は無い。
ただっ広い、文字通りの食堂に乾いた舌打ちが響いた。

此処はイギリス。
今まさにマーマレードを塗ったトーストにかぶりついたの実家。
実は父親が英国貴族だったりと、とんでもないスケールのその豪邸に、
初めて訪れた際、度肝を抜かれてしばし放心状態に陥ったものだが。
広大な土地、豪壮な屋敷。
塔こそ無いが、もはや家というよりは城に近い。
それはもう映画とかゲームといった世界な規模の代物だった。


「それより。甲太郎ったら全然食が進んでないじゃないの」


そして当然のように眼前に広がる、完璧で無欠なイギリスの朝の食卓。
所謂、Full English Breakfastというヤツだ。
薄くスライスされたトースト。
「Fried、Scrambled、Poached、Boiled、どれがいい?」と聞かれて、
「…目玉焼き」と答えて出された俺好みな焼き具合の卵。
その卵と絡めて食べるらしい、塩味の強いベーコン。
日本ではなかなかお目にかかれない、
焼きマッシュルームと焼きトマト、ベイクドビーンズの付け合わせ。
ピッチャー入りのオレンジジュースにたっぷりのミルクティー。
この間泊まったB&Bではコンフレーク(ミューズリとか言うらしい)も付いてたなんて、
ぼんやりと考えていれば「甲太郎はあんまり好きじゃないでしょ」と、
「私もトースト1枚で十分だし」と如何にして読み取ったのかは笑った。


「それとも、『私の作った食事が食べれないとでも?』」
「あのな…」


その芝居がかった台詞。

実際は、単に朝が弱いというだけの話なのだが。
更に言えば多少の気恥ずかしさもある。
朝起きれば隣に惚れた女の寝顔があって、声を掛ければ「おはよう」なんて笑う。
あまつさえ朝食なんて作って「どうぞ召し上がれ」だ。
元来、素直とは程遠い造りをしている甲太郎の精神構造では、
それらに対応する免疫も、その生成を助長する経験も絶対的に足りなかった。

要するに。
未だ僅かに夢心地にも、穏やかな幸福を噛み締めていたりするのだった。


「もう、手間が掛かるんだから」


細い指先が甲太郎の口元、もとい顎先へと伸びる。
対して甲太郎は訝しげに眉を顰めた。
成すがまま、届いたの指。
その親指が男の下唇をなぞると、そっと顎先を持ち上げる。
僅かに開く口。
まるで口付ける前の動作。


「目、閉じて」


柔らかなの声が優しく鼓膜を振るわす。
興味半分、淡い心持ち半分。
言われるままに瞼を落とした甲太郎。

すると。


「はい、あーん」


むぐ。


「………。」
「まぁ騙されたと思って食べてみなさいって」


口の中に広がった、マッシュルームの味。
冷たいフォークの触覚。

目の前にある、してやったりな笑顔。


「どう?」
「…悪くはない」
「可愛くない」
「可愛くてたまるか」
「何ならお皿下げるけど?」
「………美味いに決まってんだろ」
「良かった」





そう、それは。
《生徒会副会長》が《転校生》と出会ってから数年後の話。


ヒロインの実家にて。
エンディング後、こういうのもありかなぁと。
皆守はヒロインに養われてるとイイ(笑)