育つ感情


「失礼しまーす」
「何だ、か」


午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴る数分前。
丁寧なノックを伴って保健室へと現れたのは見知った女生徒だった。


「今日はどうした?」
「お迎えです。皆守居ます?」
「ああ。右のベットだ」
「どうも」


おそらく今の瑞麗先生はそれはもう楽しげに笑っているのだろう。

『お迎え』。
まるで幼稚園児に対する母親の物言い。
隣のベッドでこのやりとりをしっかりと聞いているだろう、
迎えに来られた当の男の、今頃むっつりと顰めているだろうその顔を思い浮かべて、
思わず口の端が上がるのを堪えられなかった。


「ほら、皆守。
 気の利く世話女房がぐうたら亭主を迎えに来てあげたわよ」


カーテン越しにも彼女がそう告げれば、しゃっと音を立ててそれは中側から勢い良く開いた。


「…誰が女房か、誰が」
「私」
「すると何か?
 俺が『ぐうたら』な『亭主』なわけか?」
「他に誰が」


寝起き故か、はたまたそれ以外の感情からか。
不機嫌を剥き出しにしたその低い声色。
対しての方は楽しくて仕方無いといった風情で。
端からみれば立派に成立しているその夫婦漫才。


「はははっ、相変わらずのようだなお前ら」


たまらず、つい立てをどかしながら吹き出せば。
男は不機嫌そうな顔を更に不愉快げに顰め、
女の方は驚いたようにほんのりと目を見張ってこちらへ振り返った。


「大和」
「出来た女房が居て羨ましい限りだな、甲太郎」
「お前な…」


その眠たそうな仏頂面が照れ隠しと知っているから、人の悪い笑みを向けてみせる。
すると甲太郎は「話にならん」と、がしがしとその後ろ髪を乱暴に掻き回した。
本当に判り易いのか判り難いのか判らない男だ。


「大和」
「ん?」
「大丈夫?」
「何がだ?」
「体調」


一方、自分の存在を認めるや否や、先程までの皆守に対する飄々さはどこへやら。
心配そうに眉根を寄せて表情を曇らせるとは、
身を起こしてベッドの端に腰掛ける俺の元へと寄って来た。
ともすれば取り残された甲太郎は、
くるりと何の未練も無く実にあっさりと自分に背を向けた彼女に、
今度こそ本気で不機嫌な表情を浮かべていた。
むしろ剣呑さすら漂わすそこにあったのは「何でソイツにはそんな親身なんだよ」とか、
「というかお前はいつから大和のこと呼び捨てにするようになったんだよ」とか、
「俺は蚊帳の外かよ」なんて、そんな赤ら様でけれどどこか拙さを感じさせる嫉妬の欠片。

変われば変わるものだと思う。
以前の甲太郎は他者に興味が無ければ、自身にすらも関心が無かった。
平穏を最良としながら、しかしいつだってその平穏を疎み、日常を蔑んでいた。
それが今やこれだ。
が何事かに関われば甲太郎も首を突っ込む。
の身に危険が及ぶと判断すれば、全力で引き離そうとする。
引き離すことができなければ、"率先"をひた隠しにもその身で守ろうとさえするのだ。

恐るべきはの"影響力"か。
以前の自分を振り返って、ぼんやりとそんなことを思った。


「ああ、もう大分寝たからな。大丈夫だ」
「そう…辛かったら遠慮せずに言ってね」
「判ってるさ」


は決して自分に『無理をするな』とは言わない。
それは彼女自身が自分と同じく、
大なり小なり『無理をせずにはあれない』境遇にあるせいもあるのだろうが、
それでも、『無理をしてもいいけど、その時は、辛い時はちゃんと言って』と、
その小さな手を差し伸べてくれる。
彼女は優しい。
それも底抜けに。
だからこそ守りたいとそう自分に思わせるのだろう。
自分の昔話を聞いた後、声を荒げて俺の弱音を否定してくれた彼女の言葉に、
不覚なことにも俺は目頭が熱くなるのを堪えられなかったのをふと思い出した。


は将来いいカミさんになるな」
「そう?」
「ああ、俺が保証する」
「お前に保証されてもな」
「どうだ? 甲太郎なんかでなしにどうせなら俺の世話を焼いてくれないか?」
「はァ!?」


言って、の両手を自分のそれでそっと握れば、
ベッドに埋もれていた上半身をまるでバネ仕掛けで跳ね起こして甲太郎は、
いつにない素っ頓狂な声を上げた。


「大和の?」
「ああ。俺の世話ともなればそれはもうし甲斐があるってものだろう?」
「オイ待てよ」
「あはは、でも皆守見てれば判ると思うけど…私の世話焼きって結構鬱陶しいみたいよ?」
「な、俺は別に…っ」
「なぁに、そこは手間の掛かる俺だからな。
 ぐらいに甲斐甲斐しいと助かる」
「そう?」


ほのぼの、と。
両手を繋いだまま交わす日向の会話。
自分の手の中に在る、細く、けれどしなやかなの指先。
こんな華奢な指ではあの硬い引金を事も無げに引いているのか。
柔らかなそのぬくもりに、ぼんやりとそんなことを考える。

すると。





「───…俺のだ、いい加減離せよ」





まるでその隙を突くかのように。
手の中のささやかなぬくみは、いつになく固い男の声に引ったくられた。





「行くぞ」
「へ? え、あ…ちょ、ちょっと?」
「次は音楽室だったな」


甲太郎に問答無用にも腕を取られて引かれて行ったはそれでも、
一、二歩、足を縺れさせながらも、
何とか自分に向かって「じゃあまた後でね」と手を振って寄越す。
それを横目で見遣って甲太郎がぐんと歩みを更に大股にして早めた。

ピシャリと保健室の扉が閉まる瞬間、の小さな悲鳴が聞こえたような気がした。





「確かアイツ、音楽は大の苦手だったはずだがな…」
「ふふ、微笑ましい限りだね」
「まったく」
「あの夫婦漫才も今では私の娯楽の一つだよ」


このSSは夕薙が仲間になったー!と記念に書いた(ぇ)んですが…、
素直になれない、というのはやはり恋愛において不利なことですよねー(笑)
そんな嫉妬アロマに【愛】。

image music 【 youthful days 】 _ Mr.Children.