「好き」


 このまま吐き出した酸素化合物の一切を吸い戻せば今口にした言葉が肺の中へと舞い戻って来ないものかと愚考した。叶うはずもない。現実を直視してそのまま口を閉ざした。


「そうですか」


 男は笑う。優雅に。穏やかに。外面だけで。常と何一つ変わらない笑みを浮かべて言う。


「ありがとうございます」


 思ってもいないくせに。
 自分で言うのもなんだが、私は人の数倍は打算的だ。ついでに言えば根の深い臆病屋で、羞恥心など人一倍。自慢じゃないが真っ向から傷付く勇気なんて持ち合わせてはいない。負ける勝負は初から捨てる、勝てない勝負は仕掛けない主義と、勝負の御利用は計画的だ。
 だから今現在のこの状況はもはや天災としか言い様が無い。でなくば事故だ。一体私が何をしたというのか。告白か。そうか、告白か。道を損ねた自問自答は面白いように坂を転げ落ちていく。私も世界も何もかもを道連れにして落ちて行く。


「では、行きましょうか」


 ああ、そうなの。私のこの失言もものの数秒で無かったものとされるの。
 今この瞬間に私とこの男との関係が何一つとして変わらなかったように、これからも私とこの男との関係は何一つとして変わることなく続いていくのか。昨日のような今日が続くように、今日のような明日が続くように。埋没していく。否、今まさに一瞬で埋め没されたのだ。この男に。


「そうね…」


 冗談じゃない。振り上げたのは利き手の拳。自分がこんな感情的で衝動的且つ能動的な生き物だなんて知らなかった。許してたまるか。私を残して一人速やかに恙無い日々の連続へ戻ろうなんて。明日にはまた何食わぬ顔で話し掛けて寄越そうなんて。振り下ろす。手を。掌を。男の白い頬目掛けて。ああでも眼鏡のつるは避けてやらないと。貴重な音機関なのだから。冷静なのかそうでないのかもはや判断がつかない。判らない時点で冷静ではないのか。それとも判らないという自覚がある時点で冷静なのか。どちらで何が変わるわけでもなかろうに。
 そうして無駄な自省行為は致命的な隙を招き寄せた。


「ッ!!」
「愛を告げた途端、文字通りにも"掌を返して"平手打ちですか?」


 本当に面白い人ですね貴女も。
 振り下ろした掌は目標を、端正な横面を捕らえ損ねた。とる寸出で逆に掴み捕られた手首。節くれた男のあるまじくも綺麗な指に優しくはない力が込められる。ぎしり。手根骨が軋む。血液が流動を妨げられて温度を失くしていく。手加減こそあるが、慈悲は無い。あと少し圧力が強まれば、細い骨から砕けてへし折られるだろう。ああここまできてようやく思い起こすのは、この男は立派な中年男性で、軍人なのだということ。そうだ。そうだった。すっかり失念していた。しかし取りこぼしていた事実を取り戻したところで現状が好転するわけもなかった。


「離し、なさいよ…ッ」
「お断りします」


 男は笑う。優雅に。穏やかに。外面だけで。常と何一つ変わらない笑みを浮かべて言う。
 ものの見事に感情が逆撫でされた。掴まれたままの手首に再び力を込める。男の頬に向けて押し込む。殴りたいわけではない。剥ぎ取ってやりたいのだ。その涼しげな外面を。小器用な頬の筋肉を。しかし手首も手首から先もびくともしない。圧倒的な力の差。微動しかしない位置。縮まらない距離はまさに現状そのもの。男は顔色一つ変えない。中指の付け根につながるか細い骨が悲鳴を上げた。


「折れますよ」
「だから、何よ…ッ」
「痛いのは嫌でしょう?」


 こんなものは痛みの内に入らない。
 こんな肉体の損傷が生み出す痛覚など、この心が膿んで弾ける痛みに比べれば。


「くッ、…っ!!」
「やれやれ…」


みしり。


「今ならまだ前言を撤回できますよ?」
「しない…ッ」
「強情ですねぇ」


みしり、みしり。


「想いを、心を踏みにじられて、そんなに憎いですか?
 まぁ愛憎は紙一重なんて良く言いますがねぇ」
「アンタのその地獄の音まで拾ってそうな耳も、
 千里先まで見通してそうな目も実は全部飾りなわけ…!?」
「…どういう意味です?」





め 、 き。





「───口でも手でも、散々好きだって言ってんでしょうが!!」





 赤い瞳の奥に映り込んだ醜い己の像が揺らいだ。





「は、ぁ…ッ」


 僅かに緩んだ拘束から、まるでバネ仕掛けにも飛び出したこの掌は男の頬を殴り付けた。それは見事に。本当に見事に。眼鏡のつるを避けて。白い頬に命中し、うっすらとけれど鮮やかに色付けた。


「…これは油断しました」
「い、…つあ"ッ!」


 再度掴み上げられた手首は骨の折れ具合から赤く腫れ上がり、所々欝血していた。
 告白をするということがこんなにも"骨の折れる"作業とは思わなかった。まさに"骨折り損のくたびれ儲け"だ。そう、ふられたのだという現実を受け入れてしまえば、あとは倦怠感だけが一気に押し寄せて来た。


「よもやそうくるとは思いもしませんでしたよ」


 男は笑う。優雅に。穏やかに。けれど常と何か一つ違う笑みを浮かべて。そして言う。


「すみませんでした」
「……は?」
「やー、私としたことが浮かれて少々調子に乗り過ぎたようです」
「は、ぁ…?」
「貴女のその顔が見たくてちょっと意地悪したんですよ」


 何を言ってるのか、この男は。
 耳から入って脳に取り込まれた単語が準々に変換され繋ぎ組み合わせられ文章化される。徐々に意味を成し、染み渡っていく。
 『浮かれて』『少々調子に乗り過ぎた』
 『貴女のその顔が見たくて』『意地悪した』
それは。それはつまり?





「───一度きりの告白なのだから、
 どうせなら愛してると泣き喚いてくれないものかと、ね」





 赤く、醜く晴れ上がった手首に口付けてジェイドは。
 今までに見たこともないそれでいて、そう。満足げ、と。そんな風に形容できるような笑みを浮かべて微笑った。

愛してる 
って 
泣き喚け。

「私は意外と無意識な方向にもウッカリなサド気質ですので、 
そこのところはよろしくお願いしますね」
「………やっぱり前言は撤回の方向で…」
「お断りします♥」
「……(もしや早まった…?)」

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