「…佐助」
「!」


眠っているとばかり思った姫さんは、
ふっと瞼を上げるとうつ伏せたままゆったりとこちらへと手を伸ばした。


「悪い、起こした?」
「起きてた」
「………マジですか」
「仕事、あるの?」
「…? いや、無いけど?」


低く、甘く、嗄れた声。
つい先程までの情事の余韻。
気怠げに言葉を紡いで姫さんはゆったりと長い睫を瞬かせる。
しっとりと濡れた女の仕草。
普段のそれとは違う、他の女ともまた違う姫さん特有の静かな艶。


「ならどうして行くの」


見蕩れて、油断した。


「目が覚めるといつも隣に佐助が居ない」


絡めとられた指の先からじんわりと淡く熱が混じり合って溶けた。


「どうして?」
「どうしてって…」
「理由があるのなら知りたいと思うし、
 言えない理由があるのなら『言えない』の一言ぐらい言って欲しいのだけど」


やはりうつ伏せたままこちらを見上げて姫さんは淡々と言う。

最近判ってきた、姫さんのクセ。
こういう相手の本質的な真意を探る時、姫さんは見事な直球勝負を仕掛けてくる。
それも絶妙な機会を窺って、最高の瞬間を設えて。
今のこれが、まさにそうであるように。
けれど内部に土足で立ち入ろうとするような乱暴な真似は絶対にしない。
相手に口を割る契機を与えて、自分はその決断を遠くからただ見守り待つのだ。
そして何処かしらで吐け口を求めていた人間達は皆、
姫さんに促されるままに結んだ唇と舌を解く。
そう、今まさに自分が大して溜めてもいない酸素を、
わざとらしく肺から押し出し口を開いたように。


「その、何っつーか…癖っつーか」
「癖?」
「職業病ってヤツかね」


居心地の悪さに苦く笑えば、姫さんは先を促すように絡めた指先を握り込む。
こちらも応えるようにその細い指を握り返した。


「ほら、俺忍だしさ。
 女抱くような仕事もあるわけで」
「そうね」
「そういう場合の鉄則や禁則ってモンがあんだわ」
「房術ってやつ?」
「ま、ね。
 女抱いた後は…まぁ、飛ぶ鳥跡を濁さずってなモンで」


何と辿々しい。
何と女々しい。
言葉を濁したり繕ったり、拙い言葉の羅列。
相手は姫さんだ。
そこらに居るような女じゃない。
天下の武田でお館様直々の客将なんてやってんだ。
俺の仕事内容なんて大体の所は把握している。
さもあれば、本来ならこんな付け焼き刃な苦笑を添える必要など無いのだろう。
それが証拠に姫さんは『房術』などという単語をけろりと用いて確認して寄越した。
あまつさえ、すっと目を細めると少しだけ不服そうに言う。


「ふうん…つまり、私は仕事で抱く女と同じ扱いってこと?」
「は? そりゃ違うけど…」
「だって今の話の流れだとそういうことになるじゃない?」


確かに。
…いや、納得してどうするよ俺。


「はぁ…俺ってば何でこうも、姫さん相手に嘘吐けないのかねぇ…」


違うな。
違うんだ。
俺も実は今気付いたばかりだが言い訳なんだ、これは。
言ってみれば前置き、理由の一つではあるが最重要の項目、核心ではない、
姫さんが気付きさえしなければ、敢えて気付かぬふりをしてくれたならば、
とりあえずはそういう形に収めて貰おうかという程度の、いわゆる建前というやつだ。


「姫さんは、大事」


そう、姫さんは大事だ。
どうして大事かなんてもはや理由など定められない程に。

勿論、愛ってもんがどんなモノかなんて知らない。
良く判らないどころか、さっぱりだ。
特に知りたいと思ったこともないし、判ろうとしたこともないせいだろう。
御陰でそういうモノに対する感覚は今やすっかりと鈍ってしまっている。
しかし、それでも。
姫さんのこと思い浮かべる度に胸のど真ん中を掻き回されるあの感覚を、
姫さんを目の前にすると熱を帯びるこの感情に名を与えるとするならば、
それは世に言う所謂『愛』ってやつなんじゃないか、なんて。
そんなこっ恥ずかしいことを妄想しては、
どうしてか筒抜けてしまうらしい姫さんにはその都度、
『愛してる?』などと綺麗に笑われてはからかわれる今日近頃。
それがまた堪らなく幸せで。
そう、俺が感じる幸の全てはみんな姫さんから生じるもので。


「姫さんはすっげぇ大事だけど…、でも、俺は」


でも、俺は忍で。
幸など感じない、得ないに越したことのない存在で。





「───姫さんの傍に居ると、幸せ過ぎて自分が忍だってこと忘れそうになる」





俺が俺でなくなってしまいそうで、恐い。





「俺は忍としてしか生きれない、死ねない」
「知ってる」
「情けない話だけど、それ以外に在り方なんて知らなくってね。
 だからどうしていいか判らなくなる。
 姫さんの傍に居ると幸せ過ぎて、どうしていいか判らなくなる」


俺は忍になるべくして生まれて、なるべくして忍になった。
だから忍でない俺なんてモノはこの世に存在しないと知ってる。
そう、知ってるんだ。
"思ってる"んではなく、"知ってる"んだ。
長年をかけて本能的な部分に教え込まれ刻み付けてきたのだから。


「忍じゃない俺が顔を出しそうになって、それ以上姫さんの傍に居られなくなる」


心地良さに立ち眩んで。
甘い目眩に身を委ねかけて。
突如足許を掬う浮遊感。
がらがらと鼓膜の内側で何かが音を立てて崩れていく。
冷たく脳裏に響く。
『忘れたか?』
忘れてなどいない。
飲み下した氷が胃の底で溶け出すような感覚。
忍という性が警鐘を鳴らす。
目の前には俺を鈍くする唯一の存在。
『消すか?』
『俺を消しかねないその女をこの手で』
何て事を。
恐くなって、逃げ出す。
忍でない俺が顔を出しそうになって。
忍である俺が顔を出しそうになって。
それ以上傍に居られなくなる。


「…だから、姫さんが目を覚ますと俺は居なくなってるって寸法」


こんな腑甲斐無い男、見捨て打ち捨てられても仕方無い。


「『人は二度生まれる』、だったかしら…」


陰鬱な思考に浸りかけて、姫さんのしめやかな声に引き戻された。


「今更何言ってるのよ」
「へ?」
「私を抱いてる時の佐助って忍も何もないって感じじゃない」
「…う"」
「いちいち許可をねだって焦らすクセに、
 焦らされてる当人よりも焦らしてる本人の方が焦れてるんだから」
「ダメ出し厳しいよな、姫さんって…」
「大体そんな風に内心なんて吐露してる時点で忍にあるまじきでしょ?」
「………まったくもって仰る通りで」


伸ばされた姫さんの腕の肌が障子越しの月光で薄らと青白く照らし出される。
その細い指が掠め取るかのようにそっとこの頬の輪郭をなぞった。
されるがまま、見つめ返す。
この闇よりも深い漆黒をひめたその双瞳を。
「恐い顔」。
くすくすと小さく声を立てて姫さんは静かに笑い出した。





「ねぇ」
「何?」
「忍としての佐助もそれ以外の佐助もどうせ不可分なんだから諦めなさいよ」





ああ泣いてしまいたいと、そう思った。





「…やっぱ、姫さんって偉大だよな」
「大袈裟。
 私はたださっさと寝たいだけ。
 佐助を抱き枕にしつつ、佐助に抱き枕にされて」
「御意」


白い手がぽんぽんと二度、布団を叩く。
促されるまま床へと戻ればぺしりと指先でこめかみを殴られた。
「好きよ、佐助」。
喉の奥が震える。
目の奥が波打つ。
本当にこの姫さんは俺をどうしたいのだろう。


「本当、手間の掛かる男」


この額に口付けて姫さんは笑う。





「───…そんな俺も俺の内だから、愛してよ」





姫さんの瞳に映り込んだ俺は、柄にもなく照れ笑いを浮かべていた。


見捨てないで 
いてくれて、有難う。



独りで恐くなって、独りで逃げ出しちゃう佐助。
要するに逃げ出してんじゃないわよというお説教です(笑)


※追記
『飛ぶ鳥跡を濁さず』ですが、『立つ鳥跡を濁さず』と同じです。
今日では『立つ鳥』の方が一般的ですが、『飛ぶ鳥』とも言います。
『立つ鳥』は『飛び去る鳥』、『飛ぶ鳥』は(連語で)『空を飛んでいる鳥』という意味で、
どちらにも『跡を濁さず』が付いて同じ意味…まぁ好みの問題って感じですか。
「ん?」と気になった方はどうぞご参考までに。