「だるー…」
ベッドの中で、未だ上手く力の込められない四肢を気怠げに引き摺って悪友は、
ぐったりと寝返りを打つと実に色気の無い愚痴を吐いてうつ伏せになった。
「大魔法使いの面影は影も形も無いね」
「うっさいわね。
それが妹と兄の命の恩人に対する労いの言葉?」
彼女の名前は。
自分がトランバイルアカデミーに留学していた際に知り合ってからの、数少ない友人だ。
旅を趣味とし、趣味を高じさせて各地を回っていたという。
(蓋を開けてみれば、正体はかの高名な魔法使いだったりしたのだが)
"観光で"アバリーに立ち寄ったというそんなに出会ったのはまさに"偶然"。
そうこうして何やかんやと、ルーティンやガーターとも意気投合したは、
即断即決にもそのままアバリーに一軒家を借りて暮らし始めてしまった。
3人、随分との部屋に入り浸った。
授業の空き時間を潰したり、学食代わりにしたり、寝袋を買って来て泊まり込んだり、
かと思えば次の日には3台のベッドが新しく仲良く並んでいて度肝を抜かれたりと、
いつしか自室と変わりない、下手をすれば自室以上に居心地の良い場所になっていた其処。
しかし自分達がアカデミーを卒業するのと合わせては、
その一軒家を「他人に売る気? 冗談」と不貞腐れたルーティンに引き払った。
そして再び文字通りの放浪の旅へ出た。
あれから数年ぶりの再会。
髪の長さも、肌の色も、笑みの形も。
何一つの物理的変化も無く、やはりは"全てがあの頃のまま"だった。
「まだ辛い?」
「まぁね。
誰かさんのおかげで此処は魔力がほとんど寄って来ないから。
…ああもしかして、そうやって僧の勤めをサボって、
毎日付きっきりでの薄気味悪いことこの上無い献身的介護は新手の嫌がらせか何か?」
「失敬な。
僕と君の友情の賜物に決まってるじゃないか」
「その無駄に輝かしい笑顔にこの首を縦に振れと?
それは無理ってなもんだわ、殿下」
「相変わらず容赦無いね」
が何故、オルキスも自分の宮殿の一部屋でベッドになど埋もれているのか。
末妹シルシラの手術を手伝ったからだ。
またもや"たまたま"オルキスに"観光"で訪れていた。
捕まえて事情を説明すれば「知ってる」と一言、実にあっさりと助力を承諾した。
そしてハルワタイトを移植するにあたっては、
高位光魔術を用いての光折処理の大任を見事に果たしたのだ。
しかしさしもの大魔法使いも長時間に渡る高位魔術の重連行使に、
このオルキスという悪条件も重なれば、魔力欠乏状態で床に伏せざるを得ず。
然るが故にはこうして、「リンゴ剥いて」などと自分を顎で使っているのだった。
「ねぇ」
「何だい?
ああ、ウサギよりカメがいいって?」
「違うわよ馬鹿。
ってかカメリンゴなんて技術どこで習得したのよ。教えなさいよ。後で」
細く白い腕を枕に突っ張って、身を起こす。
ゆらりと黒が揺らめく。
しかし。
ふいに力が抜け落ち、がくりと折れた肘。
どさ、り。
堪えかね崩れ落ちるかのように再び枕へと、横向きにも沈み込んだ。
「イレブン」
艶を消した漆黒の瞳がすっと冴えて細まる。
「アンタが祈るなら、此処から逃がしてあげるのに」
血よりも深く鮮やかな赤が静かに世界を制圧した。
「…祈る、ね」
「そう」
「誰に?」
「私に」
「ははっ、いいね、それ。
かの高名な大魔法使い様は一体どのようにこの身を逃がしてくれるおつもりで?」
「どうやってもよ」
「何処に逃げるっていうんだい?」
「何処までも」
「ありがちだね」
笑わせる。
溢れ出かけた嘲笑を奥歯で噛み殺す反動を利用して笑んで見せた。
「今、『笑わせる』とか思ったでしょ?」
「あれ? どこからバレたんだろう」
「筒抜けよ、その自慢の顔から」
ありがちな台詞。
ありがちな言葉。
しかし他人のそれとはまるで違う響きをもってしんしんと脳裏へと染み渡るのは、
がそれを事実、現実のものにしてしまうことだろう。
それだけの力がには有り、が"口約"するという事にはそれだけの意味がある。
今自分が一言「ここから出たい」と口にすれば、
翌日にはまず間違い無くこの身体はこの国の領土内には無い。
「何処か遠く」と言えば、何処までも遠くへと運んで行ってみせる。
「地の果てまで」と言えば、この大地と空が果てる場所へと連れて行ってみせるのだろう。
この世で唯一絶対に裏切らないものが存在するとしたらそれは、おそらくの口約だけ。
「…どうしてまた急にそんなことをしてくれようなんて思ったんだい?」
「アンタがあんまりにも不器用だから、かしらね」
「僕が不器用?」
「そう、変態質のオタクでエセフェミの末期的ブラコンのクセに、
また無駄に根本的なところから不器用だったりするからよ」
「君が今まで僕をどんな目で見ていたのか、良ーっく判った気がするよ」
ウサギを象り切り分けたリンゴとナイフを皿に乗せ、蜜でべたついた指先を布で拭う。
「よっこいせ」と掛けていた椅子から腰を上げる。
白く華奢な肩甲骨を見下ろす。
今ならいとも容易く奪い尽くすことができる。
暴き立て、曝け出させることができる。
を抱いてみたいと、思わなかったわけではない。
賢者まがいのこの魔法使いを一度として女として見なかったと言えば嘘になる。
望んだ時期は、確かにあった。
それが男としてか雄としてかは今も定かではないが。
ベッドへと、の頭の横へと腕を付く。
きしりと2人分の重みを受けてマットが沈んだ。
シーツに散らばった黒い髪を一房掬い上げ、口付ける。
端から見れば真っ昼間から病人に覆い被さる皇子。
茶の間には持って来いの構図だ。
8番目の兄上や末妹に目撃された日には目も当てられないだろう。
「」
「何?」
対して顔色一つ変えず、自分の呼びかけに答えたは、
まるで自分を真正面から受け止める準備でもするかのように仰向けになった。
露になる白い胸元。
その谷間へそっと鼻先を埋める。
「もう少しだけこのままで…と、そう願うのは僕がまだ迷っているからなのかな」
「まだ迷っててくれてるようならこんな事言わないわよ」
「そうだね」
ふっと香る、白い花の香り。
このオルキスには咲かぬという、遠い異国の未だ見知らぬ花の香り。
「ねぇ、逃がして欲しい?」
"変わらない"ということがとても心地良く、同時にこの上無く堪え難かった。
「いいや?」
「そう」
柔らかで甘やかな感触に名残惜しさを覚えつつも、顔を挙げる。
視線は交えない、させない。
視界を占める白い喉笛。
これが気恥ずかしさというものであるのならばそれもいいだろう。
「…それにしても」
「何?」
「『逃がしてあげる』、か」
「何よ」
「らしいよね」
こんな感情を覚えるのは、おそらく今この時が最初で最後なのだから。
「───下手に愛してるとか言われるより、ずっと嬉しかったよ」
だからもう少しだけこのままこの腕の中に、なんて。
自分が未だにこんなにも愚かでいられたのはきっとのおかげなのだから。
見透かして、
且つ見逃して。