幸せだからこそ、不安になるの。


逆説的幸福論


「喜助さん」


名を呼べば、本へと落としていた視線を上げきちんとこちらへと顔を向けてくれる。
そんな相手は、恥ずかしながら私が今この世で何よりも大切に想う人、浦原喜助その人。


「何っスか、サン?」


今日も今日とて普段と変わらず浦原商店店主の自室にて二人で過ごす休日。
畳に腰を下ろして二人仲良く読書という実にまったりとした時間を満喫する、
そんな日曜の昼下がり。
部屋中を満たす穏やかな空気が誘うのは無条件な安心感と安堵感、そして安らぎ。
生きてきた環境故に、どんなに願っても、ねだっても与えられることのなかったそれらを、
この男はいとも容易く、私が望まなくともいつだって手放しに与えてみせるのだった。

最初、それらに酷く戸惑い躊躇った私を見て、
『おいで』と両腕を広げて微笑ってみせた彼の顔を私は一生忘れないと思う。
忘れてなどやるものか、と。
どうか忘れてしまうことのないように、と。
そう心に決めた、心から祈った瞬間の感情の揺らぎを今も鮮明に覚えている。


「喜助」


またもやほとんど意味の欠片も無く、けれど今度は敬称を略して呼んでみたりする。
ゲタ帽を除いた現在の彼は普段よりもずっと落ち着いた、深い雰囲気を醸し出していて。
それはこの男自身が全身にまとうくすんだ色合い故なのか、
はたまた普段は帽子に隠され滅多にじっくりと拝むことのできないその乾いた灰色の瞳故か。

窓から差し込む陽差しに透ける、クセはあれども柔らかなそのくたびれた藁色の髪。
形の良い薄い唇、整ったな鼻筋、黙っていれば涼やかな目許。
結論として人並み以上という顔立ち。
やっぱりどうしたってイイ男なのよねぇ、なんて。
心中でノロケまがいの台詞を吐きつつ、眺めて見やる。


「ハイ?」


へらり、と言うよりはふわり、と。
営業用のそれではなく、自分だけに見せるその表情にまた胸がじわりと疼くのが判る。
こんな主観的には無意識とも、客観的には無意味とも言えるやりとりも、
今や既に日常茶飯事の枠組みに入ってしまうような代物であるから。
だからこそ相手は敢えて口には出さず、目線だけで言葉の先を促してみせる。
そして促された私はといえば、
ここまでの全てが予想通りである相手の反応にすっかりご満悦で。


「好きよ」


と、そっと用意していた言葉を彼に差し出す。


「…それはどうもっス」


ほんの一瞬虚を突かれたように小さく目を見張った相手は、
うーん、と半眼で一つ小さく唸った後、
ゆったりと両瞼を伏せると後ろ手にその外にハネた髪を掻き回してそう零した。


「ふふ、照れてる?」
「さてどうでしょうねェ?」


照れている時にだけ見せるその溜め息まじりな口振り。

先程よりも両目を細めて。
先程よりも口にする言葉はそっけなくて。
先程よりもその雰囲気は淡く揺らいでいて。

それに何よりも、微かだけれど口元へと不自然に力が籠ってるじゃない?


「喜助さんの事が、好きよ」
「………。」


これは、用意してはあったけれど、
先程のそれよりも少しばかり恥ずかしさが増して言うのが躊躇われた台詞。


「好きよ、喜助の事が」
「………。」


これは、今の台詞に乗せきれずに溢れた感情の一掬い。


「どうしようもないくらい、好き」


私の幸福な気持ち。





「…それは誘ってるんスかね?」


あら。 反撃に出たわね、喜助さん。
ぱたんと古めかしい和綴じの本を閉じる。
ついで、今度は先程のとはまた違った色合いを浮かべてその目を再び細めて。
そう、言ってみればどこか甘い毒を含んだそれ。
半ば嬉しさを無理矢理に押し込めているはいるけれど薄らと滲み出てしまっているそれ。

自分だけが独占できるそれが、たまらなく愛おしくて。


「まぁ、それなりに」


反撃を返り打ちに大逆襲、という力技にでてみたりする。


「………。」


すると、さっきよりも大きく目を見開いて。
軽く口まで開いて。
さっきよりも長く沈黙しているというか素で固まっている相手。

逆襲成功、かしら?


「…サン」
「何?」


あら?
今度はわざわざ大きく溜め息なんて吐いちゃって。
いや、もしかするとこれは。
何というか…少なからず諦め入って、る?


「アタシの困った顔を見るのがそんなに楽しいですか?」
「まぁ、それなりに」
「あのねぇ。まーたそうやって…」
「でもまぁ、それなりに…ううん、ほんの少しだけ、不安」
「───…不安、っスか?」
「そう、不安」





「好きよ」


だから。


「喜助サンの事が、好きよ」


だからこそ、不安になるの。


「好きよ、喜助のことが」


そう思って、思われて。


「どうしようもないくらい、好き」


そう伝えて、伝えられて。


「痛いぐらいに好き、なの…」





本当にどこまでも幸せで。





だからこそ、不安になるの。





ヒトも、ヒトの心も。
永久不変なものなんて在りはしないから。
私達も、私達の心も。
永久不変なものでなんて在りはしないから。





この幸せな気持ちも、永久不変なものでなんて在りはしないのだと。





───それは、幸せであればあるほどに。













気付けば俯きぎみに握り締めていたスカートの裾。
相手が、もう何度聞いたかも判らないような自分の名前を呼び捨てるのを聞いたら、
どうしてか本気で泣きそうになってしまって、余計に力がこもる。
口にしてみただけなのに。
泣くつもりなんてなかったのに。
言葉にしてしまえば酷く現実味を伴って一気に押し寄せて来た不安定な感情達。

今の私は一体どんな顔をしているのだろう。





目頭がじわり熱をもって、視界が確実にぼやけていくのが判る。
ああ、泣きそうなのね、私。
こんな情けない顔、相手にだけは絶対見られたくなくて更に深く俯く。
畳と向き合うが如きその角度。
ともすれば、ぽたりとささやかな音を立てて落ちるそれ。
ああ、本当に馬鹿な私。
泣く寸前だったってことを、もう既に泣き出してしまっていたことを。
自分でバラしてりゃ世話無いじゃない。

なのに。
相手はまるで泣くことを促すかのように私の後ろ髪を梳いて。
そして普段のそれからは考えられないぐらいに引き締まった口調でもって続ける。


「確かにヒトの心や気持ちは移ろい変わりゆく…」


そう、時間さえ経ってしまえば私もいつか心変わりして。


「永久不変のモノなんてこの世に存在しやしません」


いつかは貴方のことを好きじゃなくなって。


「無論、アタシらの心や気持ちだって例外じゃない」


一緒に居られなくなってしまう?


「でも、アタシのこの心は」


それでも、私のこの心は。



「この一瞬、また一瞬」



今だって、これからだって。





「ひたすらにアナタを好きになっていくンですよ」





どこまでも貴方を好きになっていくというのに。










「………え?」


最初の肯定的な言い回しからは、大幅に逸れた予想外の論理の帰結に、
思わず俯かせていた顔を勢いよく上げる。
そこにあったのは、今まで見たことも無い程に優しさをたたえた彼の顔。

包み込むかのような表情。
彼の、笑顔。


「その顔は…サンも同じ事を思ってくれてると考えてイイんスよね?」
「───…当然」










幸せだからこそ、不安になるの。





けれどそれは。
裏を返せば、幸せであればこその不安。

不安になるのは幸せであればこそ。





「しかしまぁ、サンの事を好きなアタシは相当な幸せモンっスね」





逆接的幸福論



喜助さんが偽物チックで痛ぇ…(汗)
つーか、喜助さんのあの飄々さが出せん…!!