ただ、あの人の見ている世界がどんなものか知りたくて。



暈 


「───…っ」


黒縁のそれは、予想していた以上に度のきつい代物だった。

ぐらり。
脳が傾ぐ。
思わず目をぎゅっと瞑むる。
視界が塞がると、揺らいだ平行感覚はそれ程かからず均衡を取り戻した。
僅かに乱れた心拍が落ち着いたのを確認して、そろそろと慎重に瞼を上げる。
ぼやけた視界。
輪郭の滲んだ世界。
じっくりと、徐々にピントを合わせていく。
何とか視界全体の輪郭線が定まった。
普段自分が見ているそれよりも少しばかり近く迫る世界。
これが藍染さんが見ている世界。
どうせだからこのまま庭も見てみよう、と。
思って視界を横に滑らせれば、また実に他愛無く。
折角、労して定めた世界は重くぶれて、脆くも崩れ去った。
またもやぐらりと目の奥が揺らぐ。
反射的にきつく目を閉じる。
すると。


「あまり長い時間掛けていると君の目の方が悪くなるよ?」
「!」


心地良い低音に、驚いて目を開けたそこにあったのは、
やや輪郭のぼやけた愛しいその人の顔。
極至近距離にある、眼鏡を取り除いた藍染さんの笑顔だった。


「起きてらっしゃったんです、か…、っ」
「ああ、ほら」


今度はくらり、と。
またもや呆気無く職務を放棄する感覚野。
というか今の私の脳は、藍染さんの眼鏡に、笑顔にと、
一体そのどちらを要因にこんなにも目眩を起こしているのか。


「こっちを向いて、


ああ、目が眩む。


「そのまま目を閉じて…、じっとしていてごらん」


言われるままに大人しくする。
すると、丁寧な手付きでもって外されるそれ。
藍染さんの眼鏡。

そして。


「!」
「賃借料、かな?」


唇に触れた、感じ知った柔らかな温度。


「それにあんまりにも無防備だったからつい、ね?」
「だってそれは、藍染さんが仰ったから…っ」
「そうだったかな」
「そうですよ…!」


まだ少しばかりぼやけた視界の中で、笑いながら眼鏡を掛ける藍染さん。
勿体無いと、少しだけ思った。
きっとこんな風に、眼鏡の無い素顔の藍染さんを惜しみ無く目の前にできるのは私だけで。
もう少しだけ見ていたかった、なんて。
気付けばどうやらじっと見つめ込んでしまっていたらしい。
「…そんなに寝癖が酷いかな?」と弱ったように藍染さんは言う。
だから私は「いいえ」と笑って、手を伸ばす。
今し方掛けたばかりの、黒縁のそれに。


「ただ、もう少しだけ…」
「もう少しだけ?」
「はい。あと少しだけその眼鏡を私に預けては貰えませんか?」
「それは…まぁ、構わないが」
「ありがとうございます」


そうして指先が黒い縁へと届けば、藍染さんはきょとんとした顔をして。
いまいち意図の掴めない私の言葉に、少しだけ考えるような素振りを見せたけれど、
それでも結局、数秒後には僅かに首を傾げながらも許してくれた。


「お借りします」


お礼を言って、先程藍染さんがしてくれたようにそっと外す。
合わせて、すっと静かに伏せられた両瞼。
とくり、と胸の奥が鳴る。
両瞼を伏せたそれは、どうしてかいつになく男性的な雰囲気を醸し出して。
胸の奥がぐっと甘く重くなる。
こんな些細な仕草にすらいちいち疼くこの胸は、もうどれほどに手遅れなのだろうか。


「…やっぱり外すとほとんど見えませんか?」
「うーん、そうだね。しかし…」
「しかし?」


しかしどういうわけか今朝はいつになく僕らの間を行き来するね、と。
眼鏡を指差し指摘されて、ようやく思い当たる。
そういえば、と。
眼鏡に『行き来』という表現が酷く藍染さんらしい、と。
意識すれば何やら可笑しくなって、思わず笑ってしまった。


「…そんなに僕の眼鏡が気に入ったのかい?」


あれだけ苦戦していたというのに、
また凝りもせず眼鏡を掛ける私に藍染さんは柔らかく苦笑して言う。


「だって私だけでしょうから、こんなの」
「…"こんなの"、かい?」
「ええ。今みたいに眼鏡を掛けていない藍染さんと、
 こんなに長く一緒に居られるなんて、きっと私だけでしょう?」


そう、私だけ。
眼鏡を外したその笑顔に無条件に触れることができるなんて、
きっと私だけなのだろうから。

そして。


「こうして藍染さんの眼鏡を拝借までできるのはおそらく私だけと、そう思って…」


貴方の見ている世界がどんなものかを知っているのはきっと、私だけ。





「───その特権を乱用して、幸せに浸ってました」





私、だけ。





「まったく君は…。
 乱用と言うほど横暴でもないと思うけれどね、君のそれは」
「そうですか?」
「そうだよ。あと、もう一つ付け加えるなら…」


ねぇ、ほら。





「僕を、こうも手軽に幸せな気持ちにさせるのも君だけだよ」





やっぱり、私だけ。



…藍染さんの眼鏡になりたい。(重症だな)