32.
目の前には、完全に息絶えた自分の身体。
死んだのか。
直観的に、というか確信的にそう悟った。
そしてそれが現実であることを認めるのにもほとんど時間を要さなかった。
昔から多少なりとも霊感なるものがあったせいかもしれない。
それ故に死後の世界というものが実在することを知っていたこともあるだろう。
あまり驚いては、いない。
強いて驚くことがあったとすればそれは、自分がこんな形で死を迎えたことぐらいだ。
これまで自分は正義や誅殺という大義名分でもって多くの人間を殺してきた。
そんな自分の最期ならばそれは暗がりの下の、そして無様で冷たいものを想像していた。
見知らぬ場所で、独りきり死んで逝くものとばかり思っていたのに。
けれど今し方死んだばかりの自分の身体は午後の陽の光の下にあって。
そしてその周囲にはたくさんの人が寄り集まっている。
中には涙まで流している人間までいる。
勿論その中の誰一人として顔見知りはいない。
全員がまったくの赤の他人だ。
なのに、何故そんな構図が出来上がっているかといえば。
「まさか子供を庇って死ぬとは、ね…」
そう、自分はありがちにも車に向かって飛び出してしまった子供を庇って死んだ。
どうして、ボールを追いかけて道路へと飛び出した子供なんて、
庇おう思ったのかさっぱり判らない。
完全な親の管理不行届だ。
責める余地はあっても、同情する気はさらさら無い。
なのに、何故?
自分にも人並みの心というものがあったかと言えば答えは否。
そんなものとうの昔に捨ててしまった。
そうでもなければ人殺しなんてやっていられない。
けれども、それでも、『危ない』とそう思った瞬間、
この身体はそれこそ文字通りの"身勝手"にもそれに向かって走り出していて。
コンクリートを蹴って。
片手で子供の胴を突き飛ばして。
地面に落下、衝突する間も無く、背中から車に跳ね飛ばされた。
しばらくは身体から、殊更こめかみの辺りから、
血液が外に流れて出ていく様子を何とはなく見つめていた。
しかしその内にやはり血が足りなくなったのか、
視界は白いフィルターでも掛けたように薄らいでいって。
自分の引き攣った呼吸の音ぐらいしか聞こえなくなった頃に、
ようやく、電球が切れるかのようにふつりと意識の方も途切れた。
そして意識が途切れたと思った次の瞬間、
気付けば自分は息を引き取ったその身体を見下ろしていた。
「損害二割…存外、綺麗な形で残ったわね、私の身体」
この死体はおそらく館長の元に引き取られるのだろう。
引き取られて、組織の手でもってそれ相応の方法において処分されるはず。
その点に関しては何の心配も無い。
自分の所属していた組織は館長の人柄や理念もあってか、
他の同業者と比して有り得ない程に良心的であったし、
自分の率いていた組も組織の中では抜きん出て優秀だった。
後事も上手く処理してくれることだろう。
信頼はしていないが信用はしている。
そしてふと思った。
組織の中の人間でも、何人かは涙してくれるかもしれない、と。
同時にくだらないと思った。
組織の中の人間なら、何人かは確実にせせら笑っていることだろう、と。
「まぁ今更どうでも良いことよね…」
そう、どうでも良いことなのだ。
死んでしまった今、もう自分に何ができるわけでもない。
何を思うにしてもするにしても全ては無意味でしかないのだ。
元より生きていた当時ですらどうでも良かったことなのだし。
考えるだけ労力の浪費というものだろう。
見遣れば自分の死体の傍らで、庇った子供の母親がひたすら謝りながら泣いていた。
見ていて気分が悪くなるものではなかったが、気分の良いものでも無かった。
さっさとこの場を離れようと、そう思った。
「さて、どうしようか…」
そうなのだ。
元より霊感とでも表現できるものが少なからずあったため、
死後の世界というものが存在することは判っていた。
けれど死んだ後の行動指針など知る由もなく。
状況打開のために、とりあえず霊というものについてもう少し深く考えてみる。
確か、霊というものは何かしらの未練があって現世に留まるのだったか。
すると必然的に、こうして自分がここに霊として存在するのだから、
自分にもこの世に何かしらの未練が残っているということになる。
けれど未練なんて代物が自分にあるかといえば、はっきり言って皆目見当もつかない。
それを取り除かない限り天国やら地獄やらには行けず、永遠にこのままなのだろうに。
それともそのうち神の御使いとやらやって来て詳しくレクチャーでもしてくれるのだろうか。
霊界に国境があるかどうかは知らないが、
この際、閻魔の使いでも主なる神の御使いでも何でもいいから、
とにかくこの無為に過ぎていく時間に終止符を打って欲しかった。
「本当に、何もかもが無意味ね…」
だからといって周囲を迂路ついている他の霊に声を掛ける気にはならなかった。
第一、自分が知りたいと思っている事を知っているのなら、
こうしてこんな所をふらふらと迂路ついてなどいないだろう。
本当にどうしたものか。
と。
「…っ!?」
びり、と。
何かの"強い"気配に皮膚が僅かに引き攣った。
「まぁ随分と冷静っスね」
振り返れったそこに居たのは、時代錯誤にも黒い着流しに薄水色の羽織をはおった男。
腰には日本刀らしい柄のひしゃげた得物。
クセのある、くたびれた藁色の髪。
顔立ちはいい男の部類に入るのだろうと客観的に判断はできたが、それだけだった。
ただ周囲の霊とは明らかに違う、絶対的な存在感。
「───…死神?」
急にそんな言葉が口を吐いて出た。
「おや、良く判りましたねぇ」
目の前の、曰くの死神はあっさりとそれを認めた。
「どうしてそう思ったんです?」
面白そうに笑って聞き寄越してくる仮定の死神。
「…何となく」
本当に何となく、突然として『死神』なる単語が頭に浮かんだのだからそのままそう答えた。
「イイ勘してますねぇ」
またしても仮定的死神はあっさりとそれに納得した。
「…それに、どこをどうしたって天使には見えない」
「あはは消去法っスか。ま、そりゃそうっスね」
この世間話レベルな会話は一体何なんだろうと思う。
だいたい死神というのは魂を刈り入れするだけの農夫ではなかったか?
いや、これは西洋思想における死神か。
しかしかといって東洋でいう死神についての知識は残念なことに持ち合わせていなかった。
「…それで、アンタが私を地獄へと連れて行ってくれるわけ?」
「おや、またどうして自分の逝く先が地獄だと思うんです?」
「アンタが本当に死神なら聞くまでもないでしょう。
"人殺し"である私に、他に行くべき所があるのだったら是非御教授願いたいものだわ」
地獄とは確か『現世で悪業を為した者が死後苦報を受ける世界』だったか。
ならば。
相手がどんなに腐った人間であれ、汚い人間であれ、
それがどんな理由であれ、多くの人間を殺してきたのは事実。
否定する気はない。
例えそれが選ばざるを得なかった道であっても、私が自分の意志で選び取った生き方だから。
それで地獄に堕ちるというのなら、甘んじて受けるのみ。
「んじゃ、教えて差し上げましょ」
「……は?」
「だから。
アナタがこれから行くべき、地獄以外の場所について説明して差し上げるんですよン」
にっこりと笑って近付いて来る死神。
一種、職業病とでも言おうか。
得体の知れない相手に、無意識的に半身捻って数歩後方に飛び退く。
すると相手は「ああそんな警戒しないで」と言って、その大きな掌をヒラヒラと振った。
その仕草と雰囲気に、
無意識にも警戒を解いてしまった自分に内心これ以上無いぐらいに驚いた。
「…ある、の?」
「ありますよ」
「地獄以外に私が行く場所があるっていうの…?」
「ええ。地獄よりもずーっと気安い処ですから御安心を」
もはや、あって無いような距離まで歩み寄って来た死神は、
生まれて初めて、もとい『生まれてからも死んでからも』初めて、
これほどまでの動揺を覚えた私を視界に収め、ゆったりとこの頭を撫でた。
こんなにも優しく誰かに触れられたのは『生まれてからも死んでからも』初めてだった。
「アナタは虚でなしに整ですからねぇ」
「ホロウ…、プラ、ス…?」
死神の言うところによると、どうやらこの世には二種類の霊もとい魂魄があるらしい。
一つは『整』。
通常の霊体のことで、今の私もそれにあたるらしい。
そしてもう一つは『虚』。
所謂、悪霊というもので魂を喰らう存在であるという。
「虚を昇華・滅却するものアタシらの仕事でしてね」
「そうすると私はどうなるの?」
「アナタのような整は基本的に『魂葬』でもって『尸魂界』へと導きます」
「…ソウル・ソサエティ?」
先程から馬鹿みたいにカタカナの鸚鵡返しばかりだな、と思った。
ソウル・ソサエティ。
そのまま直訳すれば『魂の社会的共同体』となるわけだけれど。
「そう、アナタはこれからそこで生活するんですよ」
「生活……また、『生きる』、の…?」
「生きるとは多少意味が違ってくるんですけど…まぁそうなるんスかね」
私はこうして『死んだ』というのにまた『生きる』ことになるのだと死神は言う。
「生き、る…」
胸が、軋む。
心が冷めていく。
「どうかしました?」
人は生まれること拒絶することはできない。
しかしその代わりとでもいうように死ぬことだけは、
生きようとするということである程度拒絶することもできるし、
また即時選び取ることで受け入れることもできる。
そう、思っていた。
そう自分に言い聞かせてきた。
自分を納得させてきたのに。
「はは…馬鹿みたい」
「ハイ?」
「折角死んだっていうのに…また生きろって?」
「………」
そう、死ぬことだけは選択の余地があると。
自分で選び取ることができるのだと。
自分を慰めてこれまで生きてきたというのに。
「ようやく死んだと思ったのに…何の理由があってか、
しかも死神に『生きろ』なんて言われるんだから、これが笑わずにいられる?」
そうして自分を誤魔化し繕い、生きてきたというのに。
「死んでやっと自由になれたと思ったのに…」
自分の選び取った道だった。
後悔はしていない。
全てを白紙に戻したいとも思わない。
それに嘘偽りは無い。
でも。
それでも。
人を殺すのは嫌だった。
肉を裂く感触。
骨を砕く感触。
血の生温かさ。
その全てが不快だった。
どんなに標的が最低な人間であっても、家族と呼べる人間は必ず居て。
帰りを待つ人間が居て。
その人達から『帰りを待つ』ことを奪っているのかと考えると、
心が沈んだ、胸が苦しくなった。
心なんてものはとうに捨てたとは言いながら。
心ごとまとめて捨てたはずのそんな感情はいくらでも沸いて出て。
気が狂いそうだった。
逃げ出したかった。
生きることが辛かった。
常に死ねたのなら、と祈っていた。
けれど死ぬのも簡単じゃなかった。
純粋に死ぬことが恐かったのだ。
狂気や苦痛に苛まれながら生き続けることよりも、自らの命を断つことの方が恐かった。
だからこうしてこれまで生き続けてきた。
けれど、予想外にも存外理想的な形で自分の死はやって来た。
幸運とさえ思った。
誰かのために率先して死にたいなんて殊勝なことは思っていなかったけれど。
どうせ死ぬのなら自分のためにではなく、自分以外の誰かのために死ねたらいいと。
そうは思っていたから。
偽善だろうと自己愛だろうと、何と言われようとも良かった。
それが私にとって唯一の願いだったから。
たった一つの"救い"だったから。
なのに。
「もう、いいかげん死なせてよ…」
何もかもから見放されて。
何もかもから解放されて。
何も感じなくなりたいのに。
「んー、まぁ仰りたいことのおおまかなところは判らなくもないんスけど。
そんな駄々捏ねられても困るんですよねぇ。なんせコッチも仕事ですから」
「…そう、よね」
馬鹿みたいだ。
聞き分けの無い子供のように癇癪を起こして。
感情のままに喚き散らして。
涙さえ流して。
「それにね」
また、温かい感触が頭へと降ってくる。
目の前の死神の手。
温かくて乾いた大きな掌。
柔らかく撫でるそれは、その感触はとても優しくて。
また、目の奥が熱くなる。
「アナタはやるだけの事はやってきたんでしょう?」
その穏やかな肯定に。
堪え損ねて、涙が零れた。
「別にアタシはアナタに『生前の続きを生きろ』と言ってる訳じゃあない」
頭を撫でていた相手の手は、髪へ、耳へと流れて。
この涙で汚れた頬へと行き着いて、一向に止まらないそれらを拭い取るように撫でる。
涙というものがこれほどに熱をもったものだとは知らなかった。
こんなに制御の利かない代物だとは思わなかった。
誰かに肯定されることが、受け止められることが。
こんなにも温かく満たされるものだなんて知らなかった。
「アナタはやるだけの事はやってきた」
「…そんなの…っ、何でアンタに判るのよ…」
「判りますよ。なったってアタシは死神ですからね」
目もあてられないことになっているだろうこの顔。
けれど、どもすれば涙の重さで俯きそうになってしまうそれを、意地になって持ち上げて。
見やれば相手はその気安い口調とは似つかわしくない、とても穏やかな表情で微笑っていて。
「だからね、これからは自由に生きればいい」
掌でこの頬を撫で、親指でこの目許を拭うと。
その薄い唇でもってこの瞼へと溜まった涙を掠めとって。
「それこそさっきアナタが言った通りに、折角『死んだ』ンですから。
これからはアナタの望むように『自由に』生きればいい」
涙で未だ曇った視界へと、その大きな掌を差し出して。
「さぁ…コッチでシアワセになりましょうよ、サン」
「あと、これは提案なんですけどね」
「提、案…?」
「そう、サンのシアワセな選択肢の一つとして、ね」
『魂葬』のために腰の刀を抜いた相手はふと思いついたようにそんな事を口にし、
刃物に一瞬身構えた自分を気遣ってか、一つウィンクなんてものまでして見せる。
「アタシの部下とかになってみません?」
「私に死神になれと…?」
本当にこの男は自分の意表を突くことに関しては天才的だと思う。
大抵の物事には先読みを施している、常に分析して構えている自分の思考の更に先をいき、
実に見事に振り切ってくれる。
「何たって、一発でアタシが死神であることを看破したんですから。
素質はあると思うんスよ、それもかなり」
死神になるということ。
それは、人か虚かの違いはあれど、また何かしらの相手の存在を奪うことを業とすることで。
「どうです?」
「考えて、おくわ。……選択肢の一つとして」
「そうそう、その意気っスよ」
「…何が?」
「レッツポジティブシンキングってコトっス。
んじゃまぁ、前向きに検討しといて下さいネ」
けれど。
「アタシの名前は浦原喜助。
後で早速迎えに行きますから、しっかりと覚えておいて下さいねン」
この死神の傍に居れるのならそれも良いのかもしれない、と。
そう思った。
繋がぬ駒
束縛あってこその自由ならば、この身をその笑みに繋いで
尸魂界ヒロインのプロト。
今のヒロインより口悪いし根暗だしと、かなり擦れた感じの女の子でした。
【32】繋がぬ駒『主無き自由な身』 _ 配布元:
やまとことばで38のお題サマ