シュガー


「市丸隊長。
 狸寝入りなんてことは初からバレてるんです、いい加減目開けて下さい」


三番隊副隊長と第三席によって厳重に監視されていたはずの隊長室から、
毎度のことながらあっさりと逃走して行方を晦ました挙げ句、
詰所の屋根上で、こうしてお得意の寝たフリなんてかましてくれているのは、
他に誰が居ようか否居まい、三番隊隊長・市丸ギン。

普段から見開かれることのない糸目は、今やしっかりと閉じられている。


「…あくまで寝たふりを押し通そうと、つまりはそういうわけですか」


長年の経験から知ってる。
というかそんなものがなくても判る。
この人は確実に起きてる。
起きて、狸寝入りでもって私の反応を楽しんでいる。

そして私としても、楽しまれてやるつもりは毛頭無いから。


「市丸隊長」


ペチペチと頬をはたく。
叩きながらふと、近頃ほっそりというかげっそりとやつれてきたイヅルを思い出した。
あれは絶対に心労からくる胃痛故の憔悴だ。
なのに、その原因の男狐といえば眼下でもって自然過ぎる寝息を立てている。

不憫。
まさにそれ。
年不相応にも年期の入った疲労感たっぷりの雰囲気を漂わせる友人のことを思うと、
自分のちっぽけなプライドなど捨てるべきものであるような気がしてきた。


「仕方無いわね…」


いまだに眠ったふりを装う相手の傍らに両膝をつく。
さらさらとそよ風になびく銀の前髪をふわりと指先で払ってやった。
男にしては長い睫毛が陽差しに透ける。
ああ本当、この人はどうしてこうも無駄に綺麗なんだろう。


「いい加減起きて下さい、市丸隊長」


元より目は覚めているのだから『起きて』と言うのもおかしいか。
内心考えつつも指先でその乾いた薄い唇をそっとなぞった。
全く反応が無い。

今日はまた随分とこだわるなと、そう思った。


「……起きろって言ってるでしょう、ギン」


身を倒す。
互いの呼吸さえ肌で直に感じられるような、無いも同然な距離まで傾けて、
わざと低めた、掠れさせた声で囁き名前を呼び捨てる。
いつもとは上下が逆さの体勢。
更に互いの鼻先までの距離を詰める。
視界一杯を占める、相手の顔。

本当の寝顔を知っているからこそ判別のつく、一見して無防備なその寝顔もどき。





「───眠れる王子なんて柄じゃないくせに」





憎たらしい、と。
告げてゆったりと口付けを落とした。





「───…ぅん」


口付ければ予想通りに、すぐに入り込んでくる相手の舌。
同時に逃がさないとばかりに引っ掴まれる、肩口から零れた自分の髪。
痛い、とは思いつつも逃げるつもりなんて初から無いのだから、
するだけ無駄よ、と。
言葉にする代わりに舌で応えて告げた。
ともすればするりと外れる子供じみたそのしがらみ。
髪から離れるとその手はするすると肩口を滑って背中を辿り、腰の辺りへと着いて止まった。
もう一方も同じくして、さするような感触を伴って添えられる。
完全に受け身へと徹する腹積もりらしい。
以心伝心なんて格言を鵜呑みにするつもりはないけれど、
「して」なんて言う、楽しげな声と笑みが脳裏を掠めた。
面白くない。
思って、僅かに息が上がったところで顔を引き上げる。
そうして視界を取り戻したそこにあったのは、満足げな笑顔。


「おはようさん」


子供顔負けの、あどけない笑顔。


「…いつになく爽快な目覚め具合ね」
「そらもうお姫さんの熱ーいキッスがあったからなぁ」


不機嫌になるだけ無駄。
呆れたとて不用意に体力を消費するだけ。
この男はそういう男なのだ。
そう悟っているからこそ、近い距離のまま見せつけるように一つ深い溜め息を吐いた。


「あれ。もう終わりなん?」
「当たり前でしょう。目的は達成したんだから」


ほら、さっさとイヅルの処に戻る。
言い捨てて上半身を起こし、立ち上がろうとすれば、
先ほど腰へと添えられた大きな両手に阻まれた。


「僕んコト好きやからキスしてくれたんとちゃうて、イヅルんためにキスしたん?」
「結論的にはそうなるわね」
「ぶー」
「厭味でも何でもなしに本当に可愛く無いからやめときなさいよ、それ…」


その腕に手をかけ、外すよう促すけれど、
どうやら本気で拗ねているらしく、細いがしっかりとしたその腕には更なる力がこもった。
何が言いたいのかは判る。
何を要求しているのかも判る。

が。
さて、どうしようか。


「…ギン」
「嫌や」
「ギン」
「嫌」
「あのねぇ…」


もう少し、じらしてみようか。
それともすんなりとキスを落として意表を突いてみせようか。


「僕んコト好きやー!ってキスしてくれと身ぃ起こさへん」


ああ、こんな風に戯れ合うなんて。
こんなにも温かな感情を抱くようになるなんて、あの頃は思いもしなかったのに。


「何て判り易い…恋次顔負けのお子様ぶりね」
「何とでも言いや」


気を抜けば揺るんでしまいそうになる口元を無理矢理にも抑え込んで、
努めて呆れたような声色を作ってみせる。
そんな私の様子にむうっとした表情を見せたギンは、
片手を背中にも手を回して私の身体を更に深く抱き込んだ。


「ちょっと、ギン…」


そんなことをされれば、一度起こした上半身は倒さざるを得ず。
先程までの体勢へと逆戻りさせられた私は、
引き寄せられた勢いもあってか今度はギンの首筋へと顔を埋める形となった。
ならばと、「本当どうしようもない王子様ね」と吐息まじりにも直にその鼓膜を振るわせる。
すると死覇装越しに相手の心臓が小さく、本当に小さくだが跳ねたのが判った。


「…確かに、二週間連続で隊長に眼前逃亡をかまされて、
 今やその胃痛から四番隊詰所常連一歩手前なイヅルを不憫に思うからこそ、
 プライドを捨てて、手っ取り早く確実に目をこじ開けるための苦肉の策としてキスしたわ」
「苦肉の策て」
「文字通りの意味よ。…でもね」


表情が窺えないことをいいことに口元だけを歪めて含み笑う。
ああ、彼は今どんな顔をしているのだろう。





「どんな童話だって、キスで相手が目を覚ますのはそこに愛があるからでしょう?」





どくり、と。
無遠慮に音を立てたのはどちらの胸だろうか。





「───…」
「何赤から様に驚いてるのよ。失礼ね」


言えばどうやらそれは見事に意表を突いたらしく、抱き込まれていたその両腕の力がふっと抜ける。
その隙を逃さず上半身を起こせば、そこにあったのは滅多に拝めない相手の双眼。

綺麗な両の瞳。


「いや、うん。ごめんな」
「…今日はまたどうしてか素直ね」
「僕かて素直な時ぐらいあるよ」
「確かに性欲やら何やらの誉められない欲求に関しては常に素直ではあるけど」
「いや、そういう意味でなしに……まぁ否定はせんけど」
「しないんじゃないくて、できないんでしょう」
「せやったかなぁ」


軽く見張った目を次第にゆったりと細めてそう零す。
そしてようやく起き上がった相手は最初、後ろ手に頭をかき回していたけれど、
何を観念したのか、溜め息まじりに笑ってその視線を真っ直ぐに向けてきた。

きちんと瞳を覗かせて、柔らかく細められるその両目。





「やっぱ僕にはしかおらんわ」





そのすぐ後、彼の名を叫ぶイヅルの悲痛な声が乾いた空へと響いた。



何だかんだいって書き易くはあるギン。
というか本当、この長ったらしい無駄の多い文体をどうにかせんと。