「…帰して」


黒くクセの無い髪を梳く。
滅多に濯がれることのないそれは、皮脂の油で鈍く艶めいていた。


「おウチに…帰して…」


譫言を繰り返す乾いた唇はひび割れ、血が滲んでいる。
犬歯で噛み切ったらしいその傷は、かさぶたの下から血が滲んでいた。
痩せこけた頬には掻きむしった爪痕。
その下にくっきりと残る乾いた涙の筋が痛々しい。
これ以上皹入らぬよう黒く塗りつぶされた小さな爪には、
赤茶に乾いた血が落ちずに張り付いていた。


「お兄ちゃん…」


本来ならさぞや愛らしい少女であろうに。
神になど魅入られなければ、イノセンスになど選ばれなければ、
平穏な日々の中両親に愛され、兄に愛され、幸せな日々を送れただろうに。


「どこ…お兄ちゃん」


ごめんね。


「どこ…!!」


あなたのお兄ちゃんは此処には居ないの。


「───イヤァアァぁあァッ!!」
「っ!」


突発的な絶叫。
急激に、堰を切ったように暴れ出す小さな四肢。
跳ねる細い身体を、両手でベッドへと押さえ付ける。
ただでさえ栄養失調で骨格筋も内臓器官も相当に脆くなっているのだ。
下手をすれば砕けかねない。


「おとぉさんッ、おかぁさん…ッ!!」


頬を掻き毟ろうとする両掌を、その手首を掴んで薄い胸の上に拘束する。
ベッドを蹴り付け、ばたつく両足はもう一方の肘から上でもって押さえ込んだ。
耳をつん裂く悲鳴。
おそらく両親がアクマに殺された時の記憶が脳裏を巡っているのだろう。
父と母を呼び、涙を流し、頭を左右に振り乱す。
黄ばんだ歯が色褪せた唇の皮膚を瘡蓋ごと噛み千切った。
いけない。
少女の首筋に顔を埋める。
上半身を重ねて、のしかからせ、
どうにか発作が収まるのを、体力が尽きるのを待つ。
すると徐々にだが振り乱していた顔はぐったりと力が抜けて。
つられるように暴れていた四肢もだらりとシーツへと沈む。
荒いだ呼吸が直に鼓膜を打つ。
そうよ、大丈夫だから。
言葉にする代わりに、その傷だらけの頬へと自分のそれを擦り寄せた。





「おウチに、返して……おにいちゃんのところに…」





小さな掌が、微かにこの手の甲へと爪を立てた。


縮まらない距離

私は貴女の父にも母にも、兄にだってなれないから。

title20 変わり種 No.01 ー 縮まらぬ距離