「師匠」


この不肖も極まる弟子は、個人的な頼み事を寄越す際には必ず、
前置き代わりにも自分を『師匠』と端的に呼び付けるのだった。


「何だ」
「頼みたい事があって来ました」
「手短にしろ」
「はい」


常からの皮肉の応酬も無い。
それは『簡潔より核心を尊べ』と文字通りにも"叩き込んだ"指導の賜物である。
手土産に寄越された葡萄酒で喉を潤しつつ、
昔日より変わらぬ動作でもって億劫げとばかりに先を促せば、
弟子は不得手な真顔をこしらえ音も無く背筋を伸ばした。


「笑ませたい少女がいます。
 彼女のために、その兄を室長として教団に迎えたいと考えています。
 科学者である我が師の力をお借りしたい」


仔細など語らない、仔細など訊かない。
事情など語らない、事情など訊かない。
何故か。
関係が無いからだ。
互いに互いの事情など知ったことではない。
それは相手がどうなろうと構わぬということにはあらず、
相手ならばどうともされぬであろうし、またどうとでもしてみせるであろうという、
信頼には似ず、信用には足らぬ、しかし確信には似た思考の礎の共有がそうさせるのだ。


「師匠」


深く静謐な女の声が鼓膜を透き脳の内側へと染み渡る。





「───どうか御助力を」





弟子に頭を下げられたのはこれが3度目だった。





「馬鹿弟子が。
 独り立ちしたんだ、今後二度と俺の手を煩わせるなよ」
「!」


無防備にも挙げられたそこに在ったは何時の日よりか久しい幼げな美貌。
一体如何様な覚悟を決めてこの場に臨んだのか。
問い質す気はない。
問い質す必要など無いからだ。
女の足が動く。
一歩、一歩。
音は無く、言葉も無い。
その歩みは己の2歩手前で止まり、床につかれた女の両膝によって残り一歩となった。
それは、この不肖の弟子が自分に感謝の意を示す場合にのみ限り見せる動作。
敬虔な尼僧を模したつもりなのだというそれ。
次に来る動作など手に取るまでもない。
肘掛けに置かれたこの指先を両の手で掬い上げ、まるで慈しむが如くに唇を寄す。

ああ思い起こされるのは昔日の、この両腕に抱き上げられ初めて零れ落とした弟子の笑顔。





「───ありがとうございます、師匠」





信頼にも似て、また信頼とは根ざすものの違うそれが、
親愛と呼ぶに相応しい情であると、認めることはおそらく一生なかろうが。


泥棒岬

互いに盗み合いしそれは互いの心に食い入る感情の岬

title20 変わり種 No.10 ー 泥棒岬