(寝てる…)


少しばかり目を離した隙に、出来の良い生徒は本の山に埋もれて寝息を立てていた。

もとい体力も気力も、精魂も尽き果てて机へと倒れ伏したのだ。
『ふつりと糸が切れるように』というのも、
あながち表現の技巧によるだけのものではないのかと、そんなどうでもいいことを思う。
掛けられたままの眼鏡がつるを歪ませ苦悶を訴えている。
そっと喉元へと指先を這わし、気道を維持しつつそのまま頭部を持ち上げ眼鏡を救出した。
さもあれば視界に入ったのはゆるく結ばれた拳。
握られたままの羽根ペンは机へと黒く歪な蚯蚓を描いていた。


(先は長いわね…)


決して彼という素材が悪いわけではない。
むしろ良品、いっそ逸品といってもいい。
しかし室長という地位に求められるレベルにはない、と。
現時点では言わざるを得ない。
枕となった古書のページを覗き込む。
まだ課したノルマの半分も進んでいない。
けれどこのまま起こして続けたところで成果の程はたかが知れているだろう。
それに彼はアジア支部の一研究員としての仕事もある。
今日はこれまでにして、このまま寝かせてしまうのが良策だ。
明日からまた貶して蔑して、彼の憎悪が増すような今日以上にもいびってやればいい。
今の彼にとって何よりも原動力になるのは憎しみという歪んだ感情。
黒の教団という形の無いものに対するそれを、
私という形有る、手の届くものを対象物にすることで彼を保たせているのが現状なのだから。


(恨んでくれていいっていうのは本心なんだけどね…)


目の下にくっきりと浮かんだ黒ずみへとそっと指先を伸ばす。
伸ばして、すぐに引き戻した。
今、私がするべきことは彼に触れることではない。
ましてや彼を労ることではない。
私は毒。
彼の憎しみを助長して、それを彼の意欲に充てる。
それが役目。
ただ、それだけ。


「…ごめんなさい」


けれど、それでも。


「でも、あの子と約束したのよ」


そっと静かに上下する広い背中を毛布で覆う。





「───…"此処"をあなたの"おウチ"にしてあげる、って」










近頃、目が覚めるのはいつも開いた本の上。

窓から差し込む朝特有の澄んだ冷たい光が目蓋を刺して意識が覚醒する。
次いで知覚するのは、起き上がり肩からずり落ちる柔らかな毛布。
毛布下の体温が外気に奪われ出し身震いする。
一体昨夜はいつ意識を失ってしまったのだろう。
彼女との"逢瀬"は研究員としての仕事が終わった後にすぐ始まり、
自分の意識が保てば、空が白み始めた頃にお開きとなる。
そしてそのままベッドに崩れ落ちて睡眠を貪り、
2時間後にはまた研究員に戻り通常の業務を行う。
この繰り返しが続いてもう大分経った。
最初の頃はそれなりに保っていたが、最近では途中リタイアしてしまうことがほとんだ。
昨晩もそう。
未だ脳が覚醒しきらぬまま手探りにも机のある一角へと腕を伸ばす。
指先に触れた固く冷たい感触。
保温用のステンレス容器だ。
取り寄せ、背凭れへと全身を委ね蓋を開ける。
濃いコーヒーの香りがふわりと鼻孔をくすぐった。


『なかなかの男前ね』


ある日、目元にくっきりと隈をこしらえた自分に向けて彼女が寄越した皮肉。
すると翌日から、この"魔法瓶"が机の上に置き残されて行かれるようになった。
黒い液体を一口飲み干す。
香ばしい熱が喉を通り過ぎさっと胃に収まる。
じんわりと身体中に熱が広がった。
心地良い。
霧が晴れるように意識の方も覚醒する。
机上からここ最近とんと使われないベッドへと視線を滑らす。
ベッドのシーツ同様、きっちりと整えられた白衣とワイシャツが目に入った。


『まるで悪の科学者』


ある日、前日の身なりのまま仕事に出ようとした自分に彼女が寄越した嘲笑。
すると翌日から、ベッドの上にはこうして、
糊の効いた白衣とワイシャツが揃えて置き残されて行かれるようになった。
まるで靴屋の小人。
大した小人だ。
己の想像力の幼稚さと貧困さに溜め息を禁じ得ない。





「───『"此処"をあなたの"おウチ"にしてあげる』、か…」





夢現つにも、美しい小人が呟いた言葉。





「早く、本当の君に触れたいよ…───」





今はそう、呟くだけ。
彼女はきっとこんな感情を自分に望んではいないのだろうから。


理想な妄想

望まれぬ妄想、故に望まぬ理想

title20 変わり種 No.11 ー 理想な妄想