『師匠』
ここは人が暮らしている匂いがしない。
それが本部に来ての第一印象だった。
『師匠』
『何だ馬鹿弟子』
白衣、ローブ、コート。
白い装束をまとった人間達が日々を営む黒い塔。
彼らは確かにこの塔で生活をしているのだろう。
そう、しているはずなのだ。
しかし。
『私は此処が好きになれそうにありません』
どうしてかここは人が飼われている匂いしかしない。
『奇遇だな。俺もだ』
あの時ほど甘い煙の香が愛おしく思えたことはなかったのをぼんやりと思い出す。
「此処を好きになるにはそれなりに時間が掛かりそうだ」
黒く高く、尊大にして不遜に聳え立つ塔を見上げ隣の男はしっかりとそう呟いた。
「私に似てるから?」
「…ああ。君に似て、尊大にして不遜な塔だ」
男がさぞかし気に食わぬだろう穏やかな笑みをこしらえて見せれば、
当の男は、眉一つ動かさずに冷めた眼差しを注いで寄越した。
己の先見に違わぬその反応に気を良くして笑みを深める。
肌を撫でる空気の温度が更に冷えて乾いた。
ああ、何て愛らしい。
否、"愛しい"か。
自分よりも数年先にこの世に生まれ出た男は、
すっと、わざとらしく音を立てるようにして視線を暗い空へと流した。
「此処は人が飼われている匂いしかしない」
ああ今日この瞬間ほど、万年として腐ったこの曇天を愛おしんだことはない。
「───…」
「? 何だい」
「…ふふ、奇遇だと思って」
「奇遇…?」
「私も此処はあまり好きじゃないの」
「………」
「でもこれからは、少しずつだろうけれど好きになれそうな気がする」
「…───」
男の唇が何をか紡がんと動く。
そっと、揺れる。
そして止まる。
整然と世界に降り注いだ沈黙。
黒く澄みきった双眸が、初めて自分のそれを真正面から捕らえる。
困ったように最奥を揺るがせるその眼が愛しくて。
認めることに躊躇いは無い。
変わることへの覚悟も有る。
けれどそれは今この瞬間であるべきではない。
だから。
「私が手伝えるのはここまでよ」
男の肺の中に閉じ込められた酸素を、その胃の奥底深くへと飲み下させる。
「ああ」
だって私からそれを望む権利は無い。
少なくとも、今は。
「コムイ・リー!」
ああ次に会う時は、彼のことをその名前だけで呼べるようになりたい。
「覚えておいて。
夜明け前が1番暗い朝なんだってことを」
だから、どうか。
「───明けない夜は無いのよ」
貴方が望むままに、この夜が明けていくよう。
君が望むままに
この夜が明けたならば、どうかその名を
title20 変わり種 No.18 ー 君が望むままに
コムイ兄さんもヒロインも、お互いのそれに気付いていて、
けれど暴いてしまえば間に合わなくなると理解しているからこそ、
来たるべきその時まで気付かぬふりを決意。
ようやっと夢っぽくなってきましたー。
image music【夜想曲 第2番 変ホ長調】_ Frederic Chopin.