いとしさは、


この世には『生き地獄』という言葉がある。
今の自分がまさにそれだろうと、
今まさに咽を吐いて出た赤黒い血反吐を眺めながらぼんやりと思った。


「ハっ、ぁ…ッ」


人間、体重の13分の1の血液を失うと死ぬというけれど、
もうかれこれ34時間、致死量の数倍の血液を垂れ流し続けている。
けれども私は生きている。
理由は単純明快。
イノセンスのせいであり、またイノセンスのおかげだ。
全く以って難儀な身体だと、今更ながら心中罵っておいた。


「か、は…ッ!」


つい数十分前までは真っ白だった清潔なシーツ。
しかし今やその白は赤と黒に浸食され尽くして消滅の一途を辿っていた。
何て悪趣味なベッドだろう。
ジェリーだってこんな悪趣味なソファカバーは持っていない。
湿ったシーツがぬるく肌を撫でる。
不快なことこの上無かった。
不全な呼吸も耳障りだ。
不整に痙攣を起こす四肢も煩わしい。
しかし鼻を突く饐えた血の臭いに気を失うこともできず。
まさに生殺し。
あと2日間近くはこれが続くと思うと、更に激しい鬱の波に襲われた。


「ちょっとハメを外し過ぎた、かしら…」


イノセンスを酷使し過ぎた反動。
これだから寄生型は不便で仕方無いと毎度のことながら思わずにはいられない。
発動を止めた途端、腐り堕ち始めた体内の血液。
饐えた血液はまるで溶かした鉛のように血管を巡り、
また酸の如く内側から肉を灼いては、五体を軋ませた。
それが身体中の穴という穴だけでは物足りず、
わざわざ皮膚を裂いてまで外へと漏れ出すのだ。
しかしこれもまた寄生型の業。
コンマ数秒のラグも無く、垂れ流した物は垂れ流した分だけ生成される。
開いた傷口は即時に塞がり跡形も無くなる。
無くなってまた開き、新たな膿が垂れ流される。
人より新陳代謝が活発なのだと言えば身も蓋も無いが、
その悪循環がこの惨澹たる現状を生み出していた。

本部まで私を運ぶハメになった探索部隊と医療部隊には本当に申し訳無い限りだ。
臭いし、汚いし、気持ち悪いと、まさに3K揃ってと、とんだ職務だったろう。



「……はぁ、ぃ…」


と。
後頭部へと静かに注がれた心地良い低音。
その声に僅かにだか痛みがすっと遠退く。
横目に見上げれば、いつの間にやら白い団服の男が隣に立っていた。


「コム、い…」


彼が部屋に入って来ることにも気付けなかったこの思考力は、
一体どこまで低下しているのだろうか。
そこまで低下しているのだろう。
「説教しに来たよ」。
言って彼は笑う。
視界に映さずとも気配で判る。
「でもまぁ今日のところは勘弁しておくよ」。
言って彼はやはり笑った。
この赤黒く染まった身体を見下ろすコムイの視線はとても静かで、肌に心地良い。
コムイの視線には、不思議なことに侮蔑も嫌悪も全く込められていないのだ。
理由はおそらく『慣れ』なのだろうと思う。
コムイは科学者だ。
それもトップの科学者とくれば、血腥いものなどとうに見飽きているはず。
だからこそこんな血腥い私を前にしても平然と笑ったりしてのけるのだ。
ああ私もいつか彼の手で解し剖けられる日が来るのかもしれない。
まぁコムイならそれも悪くはないか。
なんて。
これを当の本人に告げたら彼は一体どんな顔をするだろうかと、
そんなどうでもいいことを思った。


「久し、ぶり…っ、ね…」
「無理に喋らなくていいよ」
「そ、ぅ…?」
「だから喋らなくていいって言ってるだろう」
「そう言わないで、よ…暇で、しか…っ、ッハ、…仕方無いんだ、から」


丁度、うつ伏せていて良かったと思う。
何せ穴という穴から腐り切った血液を垂れ流しているのだ。
顔とて例外ではない。
周囲からは『極上美人』と定評のあるこの顔も、こうなっては滑稽以外の何でもないだろう。
もはや赤黒く染め上がった枕に埋めた顔を僅かに、ほんの僅かに持ち上げる。
そうして視界の端ギリギリにコムイの顔を半分ほど捉える。
と、それを白い何かが遮った。
思わぬ現象にびくりと肩が跳ねる。
何だろうか。
もはやゴムかと思えるほどに触覚の無くなった頬に意識を総動員して、
白い遮蔽物の正体を探ろうとするが、それより先に、何てことはなく取り除かれてしまった。
重い目蓋を持ち上げる。
そこにあったのは白い濡れタオルとコムイの大きな手。
ああ、彼が私の顔を拭ってくれようとしているのか。


「いい、わよ…」
「そう言わないでよ。
 一ヶ月ぶりの君の顔が見たくて仕方無いんだから」
「あと3日、待って…っ、くれ、れば…嫌って程見せてあげるわよ…、ぐッ」


だから今は見ないで、と。
遠回しにも告げる。
いくら私の神経が太くできているとは言っても、
さすがに恋しい男に醜顔を晒せるほど無神経にはできていない。
だというのに彼は、無情にも敢えて素知らぬふりを決め込んで、
この顔を身体ごと仰向かせようとする。
やめて。
拒むようにシーツを握り締めれば、コムイは困ったように溜め息を吐いた。


「今、見たいんだ」
「…今、見られたくないの」
「どうして」
「不細工もここに極まれり、だから」


ああ、やってしまった。
うっかりとなど自虐的になんて口元を歪ませてしまった。


「そんなことか」


コムイもコムイだ。
リバウンドもまさに峠という時に顔を出しに来なくてもいいだろうに。
むしろ狙って顔を出しているとしか思えない。
そんな恨みがましい事をつらつらと考えていて、油断をした。
彼の大きな、温かな掌にぐっと肩を掴まれたかと思うと景色一変、
2割程度しか確保されていなかった視界がフルに開ける。
急な反転に追い付けなかった三半規管が鈍く悲鳴を上げた。


「君はいつだって綺麗だよ」


嘘吐き。


「本当だよ」


嘘吐き。
再度、声にならない声で呟く。

覆いかぶさって真上にある彼の黒い瞳には、しっかりと無惨なこの顔が映り込んでいる。
予想通りというか予想以上というか、そんな有り様だ。
だというのに彼はぬけぬけと「綺麗だよ」などと再度嘯く。
一度、『綺麗』という言葉を辞書で引いてくるといい。
軽口を叩こうにも、仰向けにされてしまっては、
凝固した血液のこびりついた喉では声帯を震わせることができなかった。


「綺麗で大切な、僕のだ」


蚊の鳴く様ななけなしの抗議は、コムイの薄い唇に塞がれた。

この男は正気だろうか。
腐った血に塗れた唇。
勝手に裂けて開く肌。
饐えて臭い立つ身体。
そんな死体と大差無い人体に甘ったるく口付けるのだから気が知れない。

しかしすぐ次の瞬間には、やはり正気なのだろうと知らしめられるのだ。


「──…コム、イ」


その視線が、笑みが。
1mmも逸らされることもなくこの瞳の奥になど注がれてなんているから。


「コ、ムイ…」
「何だい?」


無様に軋む惨めなこの身体から流れ出すのは、腐り堕ちた、饐えて臭う赤黒い血液。
けれど。





「───もう少しだけ傍に居て」





コムイに触れられると流れ出すこの涙だけは、いつだって赤くも黒くもなかった。



本誌の展開にのって、イノセンスのリバウンドな話を。
この↓曲は本当にイイです。
Sugar MamaのHPに行けば視聴できるので、うっかり興味を持たれてしまった方は是非。

image music:【ジブラルタル】_ Sugar Mama.