『弁慶…───』


愛しいその声が遠退いていく。
もうじきその泣き顔さえも見えなくなるのだろう。
もう二度と開かぬのなら、この瞼の裏に。
君と居た優しい記憶を、君の泣き顔ごとその奥へと焼き付けようか。
君の声を。
君の顔を。
君の涙を。
薄らいでいく愛しさの全てを何一つこの冷たい灰色の空に逃さぬよう。
君を帰した天に攫われぬよう、強く、強く。


「───…弁慶!!」


ああ一際近く、鮮明に思い出せた君の声もやはり悲しく悲痛な音なのか。


「しっかりして、弁慶!!」
「え…?」
「弁慶…っ」


それは記憶の一端だと思った。
巡る走馬灯の一景色だと。


「……?」


だって彼女が此処にいるわけがない。
彼女は帰っていったのだから。
この天に、元の世界に。
傷付け、泣かせて、自分が送り出したのだ。
だというのに。


「あた、たかい…?」


この頬に触れる彼女の、感じ知った掌はとても温かい。
この名を呼ぶ、柔らかな音程は酷く鼓膜に心地良い。


「どうして…」


目の前にある彼女の泣き顔はやはり透明で、傷付け送り出したあの日のまま。


「どうして君が、此処に…ッ」


ああ、彼女だけは此処に居てはならないというのに。
戦場になど居てはいけないのだ。
何よりも平穏の似合う、誰よりも平穏を愛す彼女が。
こんな処に。
僕の傍らになど、居てはいけないのだ。
なのに。


「貴方の声が聞こえたから」
「僕、の…?」
「貴方が私の名前を呼ぶのが聞こえたから、私は戻って来たの」
「僕は…」
「とても嬉しかった」


僕の呼ぶ声が聞こえたのだ彼女は言う。
僕が彼女の名を呼ぶ声が。
だから戻って来たのだと。
この世界に。
この戦場に。
この僕の元に。
静かに目尻から涙を零れさせながら。
深く安堵するように柔らかに笑みながら。


「あれは源氏の巫医殿…───龍神の神子だ!」


彼女は龍神の神子だ。
彼女が応えるのは龍の声であって、僕の声じゃない。
そんなことあってはならない。
ならないというのに。





「ごめんなさい、弁慶。
 私は貴方が思うよりもずっと諦めの悪い女だったみたい」





なのに彼女は、やはり涙で頬を濡らしながらもこの上無く嬉しそうになんて微笑って。





「龍神の神子でも、源氏の巫医でもなく…」





その白い頬を濡らすぬくもりは、とても温かく。





「───貴方が望んでくれたただの春日は、こんなにも諦めの悪い女なの」





ああ根深く諦めの悪いこの僕が、
最後まで諦め切れなかった君のその柔らかな微笑みに適うはずもなかったんだ。



タイトルは『光雲』と書いて『てるも』と読んで、桜の種類。
私は太白の次に好きです。

image music:【 Ring 】 _ 平井堅.