宵闇の賢人


「指輪もこの身も、お前達に渡しはしない!」


いかに勇敢な彼をしても、その勇気ももう既に尽きかけていた。
しかし、最後の最後まで諦めることなく気力を奮い立てて振り上げたその剣が、
報われること無く砕け散ることはなかった。


「───下がりなさい、魔王よ」


もはや精魂尽き果てたフロドの鼓膜を振るわせたのは。
宵闇を思わせる、空気に浸透するかのようにしっとりと響いた良く通るアルト。


「貴女は…?」


霧に濡れる深い森の中からゆったりと歩み出て来たのは、
深緑に映える黒いドレスとストールを身にまとった黒髪の女性だった。


「もう大丈夫よ、フロド」
「!どうして、僕の、名を…」


一瞬、警戒心に身が凍る。
しかし艶やかでいて、けれど深く心を落ち着かさせるその声と笑みに、
彼の肩を蝕む激痛はどうしてか波が引くように和らぎ、
同時に有り合わせの警戒心も端からさらさらと砂のように崩れ落ちていった。


『宵闇の賢人…』
「どうやら私の顔を忘れてはいないようね。
 3000年ぶり?懐かしいわね。
 ───まぁ、会いたいなんて微塵も思ってはいなかったけれど」


彼女が一歩、一歩と距離を詰める度に周囲の空気が澄まされていくのが、
だんだんと意識の白みいくフロドにも肌で感じられた。
黒の乗り手の黒馬が嘶き、馬主に逆らい後ずさる。
見やれば既に、彼女はフロドまで後数歩の位置までその歩みを進めていた。


「おいで、アスファロス」


名を呼ばれて、アスファロスは躊躇い無く声の方向へと馬首を巡らせた。
アスファロスが主であるグロールフィンデルの殿に忠実なことは、
今までの走りぶりから十分過ぎる程に伺い知れている。
そのアスファロスが自ら鼻頭を白い頬へと擦り寄せてなどいるのだ。

この人は味方だ。
フロドは確信した。

味方を得たという安堵感からか糸が切れた人形のように、
馬上から崩れ落ちた小さな身体は、
地面へと衝突することなく細い腕と柔らかな胸に受け止められる。
まるで慈しむようにそっと撫でられた髪。
涙が毀れそうになるのを覚えてフロドは必死に顔を上げた。
が、しかし。


「あぁ…っ!」


目に入ったのは、迸る水飛沫。
幽鬼が首領を先頭に三人、鈍く黒光りする得物を掲げて川中へと入り、
此岸へと迫って来たのだ。


「…退けと言ってる。
 我が夫の顔と預言を忘れたか、魔王よ」


思わず握りしめた黒いドレス。
縋り付かれた貴婦人は特に動じた様子もなく、
先程よりもずっと威圧を含んだ低く冷ややかな声でもって囁くように言葉を紡ぐと、
乗り手の首領に黒曜の瞳で鋭い一瞥を加える。
その全てを射ぬき通すかのような視線に戦いてか、黒馬の前足が宙を掻く。


「大丈夫よ、フロド」


ふわりと抱き寄せられて、自分の背へと優しく添えられたのとは逆の手に、
その細い腕には不釣り合いな程に長柄の剣が握られているのが目に入った。
すると器用にも指先だけで鞘から抜かれたそれ。
静かに剣刃が姿を現し、足下へと音も無く鞘が落ちる。
そうして前方の黒へと突き付けられたその真っ直ぐな切先。
おそらく長剣の銘なのだろう、彼女が短く一言口にすると、
白銀の刀身に、奔るようにエルフ文字が光り浮き上がった。


「『───比類無きもの、魂は一にして無限である』」


フロドには所々の単語しか聞き取とれなかったが、
エルフ語で唱えられたそれに応えるように、川の水が眩く輝き始める。
と、轟音と共に白光を内に抱いた激流が、
堰を切ったように上流から水塊となって押し寄せてきた。
黒を絡めとるが如きその激流の中に数頭の白馬の頭が見えたのは、
彼のもうほとんど覚束無い目の錯覚か。


「…しかとその身で味わいなさい。
 裂け谷の主と灰色の魔法使い、そして宵闇衣の三重奏を」


白に飲み込まれていく黒き穢れ。
その視界に同調するように、フロドの意識も白い淵へと遠のいていった。


!」
「彼は無事よ、フィンデル」





そんな彼が最後に目にしたのは、対岸に白く輝く影。



原作だと本当はフロドの剣折られるんですが。
この折れた剣の代わりにビルボからつらぬき丸を譲り受けるんですが。
…まぁ、いいか?(良くないだろ)