賢人たりし堰


冥く燃える焔が黒く岩壁を照らす。
もはや轟音さえ発する熱波が鼓膜を焼く。
熱で膨張した厚い空気が渦を巻き、外界の音を遠くくぐもらせる。


「あの人一人では無理だ!
 ───エレンディルの名にかけて!」
「私も加勢しますぞガンダルフ!」


剣を構えた男二人の前を阻むように伸ばされたのは。


「何を血迷っているの」


細くしなやかな女の腕だった。


「な…ッ」
「何のつもりだ!?」
「下がりなさい…下がって彼らを導き進みなさい」
「しかしガンダルフが…ッ」
「彼の言葉を聞いたでしょう。
 貴方達二人が加勢したところで何の足しになる?
 いいから彼等らを、フロドを連れて入口なる出口を目指しなさい」


静かな、淀み無い凍えた声色。
まるで決定事項を口にするような淡々とした口調。
溶岩と地獄の業火に照らされて尚、高潔な色を宿すその黒曜の双眼でもって、
女は真正面から注がれる剣士二人の責めの視線を弾き返した。
何者をも威圧し征服するその眼差し。
その向こうでは一枚の細い岩橋の上で灰色の魔法使いがただ一人、
火焔を負った黒き影、力と暴威に抗っていた。


「何故だ…」


彼女は言った。
彼を一人残して先に進めと。


「何故だッ!!」


彼を見捨てて、彼を犠牲にして生き延びよと。





「───貴女は彼を見捨てるというのかッ!?」
「───ならばお前は彼を無駄死にさせるというのか!!」





互いに、喉が裂けるんばかりの荒いだ声を聞いたのは初めてだった。





「ガンダルフ───!!」


悲痛なフロドの声が鼓膜を裂く。
一際世界を揺らがす轟音に視線を巡らせれば、其処には既に悪鬼の姿は無く。
代わりにあったのは血と炎に汚れた片手で、折れた橋の岩崖にしがみついたガンダルフ。


「───行け、馬鹿者!」


叱咤を残して灰色の魔法使いは奈落の底へと、常つ闇へと呑まれて消えた。


「…立ちなさい、アラゴルン」


声を無くし、虚空を凝然と見つめ立ち尽くす一同の耳に、静かな女の声が染み入る。
同時に砕けた橋の残り部分が冷たい音を立てて崩れ落ちていった。
誰よりも先に顔を挙げたのは、名を呼ばれたアラゴルン。
その慚愧に堪えぬ表情にやはり静かな視線を注いでは、彼へとその手を差し伸べた。
白くしなやかなそれを見つめ、そっと瞼を閉じる。
魔法使いの最後の表情を脳裏へと思い浮かべ、きつく焼きつける。
進まなくてはいけない。
それは自分の義務であり意志だ。
今一度奥歯を強く噛み締め、瞼を上げた。
弓が撓る音、矢が空気を裂く音が意識を現実へ完全に引き戻す。
洞窟そのものを揺るがす太鼓と角笛の大音響が世界の色を変え始めた。


「ヌーメノールの末裔よ、導きし王よ。
 お前が立たぬというのなら私が先を行く」
「…今度は私が先頭に立つ!
 ボロミアはしんがりを!」
「く…っ、判った!」


彼は差し伸べられたその白い手を取りはしなかった。


「すまない…っ」
「これが私の役目だもの」


代わりに、頭へと立つにすれ違い様にも交わされた微かな言の葉。





「彼の最後の言い付けに従わなくてはならない。皆、私へ続け!」



アラゴルンと怒鳴り合いたかったとかそんな夢。(やっぱどっかズレてるよ、お前…)