「おや…殿?」
「あ、徐晃」


目の前の角からすっと姿を現したのは自分の同僚であり、魏の軍師兼武将である殿。


「良い所に。
 今、ちょうど暇だったりしない?」
「まぁ暇というか時間ならありますが…」


自分を見て、穏やかに微笑う彼女の両腕に抱えられたのは、
その腕の細さに似つかわしくない、見ていて思わず手を差し伸べたくなるような、
ずっしりとした重量を持つ正方形の物体。


「じゃあ良かったら付き合って」
「付き合うというともしや…」
「お察しの通り」


木製ではなく、見事な石細工の施してあるそれは。


「そう、囲碁」


碁盤である。


「曹操様に聞いたら使ってもいいって言われたから借りてきたの」
「そうでしたか。いや、これはまた立派な碁盤でござるな」
「でしょ? どう、私と一局打ってくれない?」


囲碁。
ここ久しく触れていなかったそれの感触がふと利き手に蘇った。


「それは構わぬが…」
「…が?」
「拙者はそれ程強くないでござるよ?」


告げて、苦く笑う。
元より自分は嗜む程度にしか碁を打つことがない。
対して現・魏国軍師でもあり、どちらかといえばやはり頭脳労働を得意とする彼女。
彼女が囲碁に関して玄人かどうかは知らないが、はっきり言ってあまり勝てる気はしない。
なのに彼女は。


「ふふ、それは実際にやってみなくちゃ判らないでしょ?」


などと猫のように目を細め、楽し気に笑って。


「それに、徐晃をさり気なく長時間独り占めできると踏んで、
 こうして囲碁を選んで借りて来たんだけど?」


結局はその笑顔に押し切られてしまった。


惚れた者勝負


───パチリ…


一切の容赦も無く敷き詰められていく碁石。
一旦集中してしまえば、跡形も無く消え失せる時の流れ。


「むぅ…そうこられたか。では…」
「………」


その中で一際鮮明に浮き立つ、真剣そのものの彼女の存在。
碁石と共に碁盤へと落とされるのはどこまでも直な視線。
同じ直でも、戦場や練兵場で見られる熱を帯びた"動"のそれとは違い、
いわゆる"静"のそれは、温度の低い存在感はどこまでも冴えた印象を備えて。
細波の立たない冬の湖面を思わせる、一種鋭ささえ感じさせる表情は酷く、綺麗で。

普段の穏やかで朗らかな性質からは相当に掛け離れたように思うが、
元より彼女は、凍牙のような切れ味を備えたその軍師としての才知を殿に見出されて、
この場にいるのだと改めて肌で実感する。

けれどもやはり、その対照的な両極の差にどうにも、戸惑う。


───パチ…


…それにしても本当に容赦が無い。
逆に手を抜かれてもそれはそれで気分の良いものではないが、これはまた一方的な展開だ。
要するに自分が圧倒的に押されているのである。

軍師としての彼女が得意とする戦術は、『介入』。
その確かな戦利眼により戦況の流れを読み取り、干渉・侵略し、我が物とする緻密な戦術。
じわりじわりと周囲から影響しながら逃げ道を封殺しつつも、
最後には相手の意表を突く大胆な一手でもって打ち砕く、論理も経験も兼ね備えた戦法だ。

実戦さながらの展開をみせる碁盤の上。
これは反撃の間すら封殺されるのも時間の問題か…。


「では…」


───パチリ


それでも今は守りに徹して石を置く。
次は彼女の番だ。
自分の一手の具合を推し量ろうと、その表情を窺うべく少しばかり視線を上げる。
すると。


「…、殿?」


どうしてか自分を凝視している彼女。


殿?」
「え?」
「いかがなされた?」
「え、あ…」


不思議に思い、声を掛ければ彼女は弾かれたように現実へと戻って来る。
どうやら凝視というよりはぼんやりとしていただけらしい。
彼女は「ごめん」と一つ小さく謝ると、逃げるように碁盤へと視線を戻した。

一体どうしたというのだろう?


「もしや体調でも優れないのでは?」


普段から執務に詰めている彼女の様子を思い出し、不安になってそう尋ねる。
すると、先程のそれとは打って変わってバツが悪そうに、
こめかみの辺りから髪を梳き上げた彼女。


「ううん、違うわ」
「では…」
「いや、あのね。あー…、何て言うかその」


自分の見間違いかもしれないが、
その頬にはほんのりと朱が射しているように見えなくもなく。
熱でもあるのかと思わず案じてしまう。
けれどそんな自分如きの心の内など推し量らずとも顔から筒抜けのようで、
彼女は重ねて「違うから」と否定すると苦く笑った。

困ったような溜め息と共に寄越される、上目遣いのその漆黒の双瞳。
そして。





「…徐晃に見惚れてました」





そんな照れくさそうな声と笑顔。





───パチリ…





これすらも彼女の策略の一部なのだろうか?





「───は?」
「いや、だから。徐晃に見惚れてたの」
「…っ! な、ななな…っ!!」


始め、何を言ってるか判らなかった。
のちにゆっくりと、じわりじわりと意味を伴って脳に浸透していく彼女の台詞。
ようやっと理解すればしたで、とたんに身体中を巡り始める熱。


「だって徐晃があんまりにも真剣そのものだったから…やっぱり格好良いなぁと」
「な、何を仰る! 拙者は決してそのように『格好良い』といったようなことは…!」


くすくすと笑う彼女の声が心地良く鼓膜を振るわす。


「徐晃の視線がね、碁盤に落とされる視線が凄く真っ直ぐで。
 同じ真っ直ぐな視線でも、戦場や練兵場で見られる"動"のそれとは違って。
 んー、何ていうか"静"って言うの?
 何にせよ、そんな冴えた印象の徐晃凄く格好良く見えたのよ」


彼女の唇が紡ぎ出す言葉は皆、
先程まで自分が抱えていた煩悩とも言えるそれと同じ内容を持っていて。
驚きでまたも思考が吹き飛ぶ。


「で、思わず見惚れちゃったわけ」


肩を竦めて、苦笑混じりにそんな事を言う彼女を要因として、
この身体は常より有り得ない程に、戦場であっても得られることのない程の熱を持って。
元より融通の利かない口は更に輪を掛けて思う様に回らない。
思考が停止と急発進を繰り返す。
今の自分に最も相応しい単語があるとすれば、まず間違いなく『混乱』だろう。

もう、囲碁どころではない。


「───負けました」
「へ?」
「拙者の負けでござる」
「え、だってまだ置けるとこあるじゃない」
「いや、もう、正直囲碁どころではないのでござるよ…」


そんな自分の台詞と様子に。
もしかして気分害した?と不安そのものの表情で見返してくる彼女に、
また淡い幸せを噛み締めつつも、首を横に振って見せる。


「そうではござらんよ」
「ならどうして…」


そうではない。
そうではないのだ。


殿に、見事に心を乱されてしまったのですよ」
「心、乱す…?」


だからこそ先程まで自分が考えていた事を残さず言葉にすると、彼女はまずきょとんとして。
つい一時前までの自分程ではないが、随分と驚いた様子で「そうなの?」と再確認してきた。
勿論、「そうだ」と肯定する。


「それじゃあ私、自分に見蕩れた徐晃に見惚れてたわけ…?」
「そう、なるかと」
「何それ、可笑し…っ」


笑う彼女の表情はその年齢相応のもので。
常より大人びた仕草と雰囲気を纏う彼女を鑑み、それだけで満たされる自分の内側。


「はは、確かに」
「でしょ?」


幸せなのだと思う。


「何て言うか…」


否、幸せなのだと叫びたくなる。





「相思相愛って感じ?」





けれど、それでも。
幸せ過ぎるのも考えものだと思う自分はやはり、傲慢な部類の人間か。





「徐晃。それ、今更」


目も当てられない程に赤くなっているだろう自分を見て彼女は、今度は幾分意地悪くに笑う。


「そ、それは…!」
「ふふ、それじゃあ今回は私の勝ちってことで」
「今回…。何と言うか拙者は一生殿には適わないように思うのだが…」


先程までとは違い、酷く満足気に。
機嫌良さ気に碁盤上に散った碁石を片付け始める彼女。
まだいくらか言いたい事はあったが、先に試合を放棄したのは自分だ。
敢えて口を噤んでそれに倣う。

けれど。


「───『それは実際にやってみなくちゃ判らない』って言ったでしょ?」
「!」


またもやこれも策の内なのだろうか。
いやきっと策の内なのだろう。

碁盤の上で指を、絡めとられる。


「こんな私だけど…」


その細くしなやかな指先は。
直に触れる彼女の白い肌は。


「また勝負してやってね?」





どうしようもない熱に晒されているこの肌でも感じ取ることができる程に、
柔らかな熱を帯びていた。



相変わらず文章が無駄に長い…もっと推敲力が欲しいと切実に願う今日この頃。

久々にオンライン碁をやっていて思い付いたSS。
で、ここはやはり敢えて徐晃さんだろうと。
ミスマッチかと思いきや意外と違和感の無いですね、徐晃と囲碁の組み合わせ。