何だってこんな不良軍師に惚れなきゃならなかったんだろう。


恋の山には
孔子の倒れ


「今夜は逃がさないわよ」
「随分と色めかしい台詞だな」


顔がとにかく好みなのは確かだけど。


「馬鹿言ってないで、いい加減仕事しなさいよ」
「ふむ、つまらんな…荀イクの真面目臭さが移ったんじゃないか?」


郭嘉。
字は奉孝、潁川の人。
現在、司空軍祭酒に就任している歳若い軍師。
(といっても周りと比較しての話であって、実際にはもういい歳だけど)


「まぁいい…それで、その生真面目からの回者か?」
「そうよ」
「随分と潔いな」
「それが売りだし」


口にする世の事柄はみな無欠如に的中し、現実へと姿を変えてしまう。
故にこの男の言葉は"予言"と見なされる事もしばしば。
周囲にその全てが成就するような錯覚を与えてさえいるのだ。
実際、ただの一度だって外れたことはないのだから、
本当は仙人か化け物の類いなんじゃないかと本気で疑りたくなる。
その神業的な洞察力、まさに神算。

けれど。


「そんなことはどうでもいいのよ。女漁りに行く暇があったら仕事して」


品性は最悪。
毎晩毎晩飽きも懲りもせずに華街に出向くような男だ。
しかも出向けば必ず、酒と女の香りをその肌に貼付けたままに、
どうしてか仕事をする気も無いくせに執務室へと戻って来る。
そうして戻ってくれば、滞った仕事を勘定しに来ている事の多い私を捕まえては、
聞いてもいないのにその日の女の感想を述べ、意見を求めてくる始末。
要するに体よく絡まれるのだ。

ともかく酒、賭博、女、と何でもござれで、
同僚からも度々その素行を役所に訴えられているような男なのだ。
まぁ、こうした火遊び関係で若い頃に培った裏社会との繋がりがあって初めて、
現在の"神算"があるとも言えるのだけど。


「女漁り、か……それは嫉妬ともとれるが?」


ついでに言えば、タチの悪い事に天下無双の自信家。


「…自信過剰は身を滅ぼすわよ」
「気が強過ぎると身を固め損ねるぞ?」
「御忠告どうも。いいから仕事して」


そこが曹操様と、とことんウマの合う由縁なのだろうけれど。
はっきり言って付いて行けない。
元より付いて行く気も無いが。


「それとこれは明日…もう今日ね、今日の昼までに必ず終わらせておいてよ」
「まぁ俺は気の強い女はそれなりに好きだからな」
「………人の話聞いてんの?」
「頼まれたなら貰ってやってもいいが?」
「アンタなんか真っ平御免───、…っ」


突然生じた、予想もしない感触に思わず息を呑む。

軍師のくせに、全く気配の動きが感じられなかった。
いつの間にこんなにも距離を詰めたのか。
いくら仕事を勘定するためとはいえ、敵に背中を見せたのが甘かった。
気が付けば背後から抱きしめられているこの身体。
戯れ付く猫のような仕草でもって郭嘉の唇が首筋に触れる。


「…子持ちの既婚者に嫁ぐ気は無いわよ」
「ああ…そういえばお前の元居た場所では一夫一妻制が主流だったか」


一夫多妻制が悪いとは言わない。
ただ自分に関しては容認できないというだけ。


「情など既に通い合ってはいないさ…構わんだろう」
「構うわよ。離して」


わざと苛立たし気な声でもって、自分を包み込むそれを鬱陶しいとばかりに払えば、
予想以上にあっさりとほどけたその両腕。
この男なら逆に面白がって更に抱え込みそうなものを。
というか普段なら実際にそうしてくるのに。

───こういう思考が期待じみていて危ないのかと、今更ながらにふと気付いた。


「…随分と引き際がいいのね」
「随分と不思議そうだな」


そして振り向いたそこには。
月光を背に、先程まで自分を抱きしめていた両腕を軽く広げ、薄く微笑む郭嘉。


「郭、嘉…?」
「どうしていつものように更に強く抱き締めてくれなかったのか」
「は?」
「どうして抱きしめたままでいてくれなかったのか」
「だから自身過剰は身を滅ぼ…」
「何故だと思う?」


その口元が完全に表情を失くす。


「何故俺が、執務に差し障りが生じる程までに仕事を溜め込むと思う?」


その深い闇を塗り込めた双眼が、月光で更に色彩を欠く。


「何故俺が、執務に差し障りが生じる程までに仕事を溜め込んだ上で華街へと赴き、
 女を抱いた後に屋敷へも帰らずこうして執務室へと戻って来ると思う?」


その存在が寂し気に歪む。


「何故俺が、らしくもなくこのように…躊躇うと思う?」


何かを堪えるかのように切な気に。
郭嘉は広げていた両腕の、その掌を握り締めた。


「そんなの…知る訳ないじゃない」
「知らずとも、判らない訳がないだろう、お前に」


こんなにも赤ら様に口説いてやっているんだぞ?と、言って一歩距離を詰められる。
そんなんで説いていたわけ?と、手早くあしらって逃げるように一歩下がる。


「殿に、荀イクにと、その神懸かり的な先見の明を高く評価されているお前に」


いつにない郭嘉の声色。
どうしてか自嘲しているようですらあるそれは、
違和感を通り越して、拠り所の無い不安さえもこの胸に招く。


「それとこれとは別次元の問だ、い…」


つ、と。
後ずさった指先に硬質な物に触れた。
確認しなくても判る、郭嘉の執務卓だ。
私としたことがらしくもない形で逃げ道を失った。


「俺のような火遊び好きよりも、品行方正で清廉な荀イクの方が良いか?」


頬に自分よりも幾分温度の低いものが触れる。
郭嘉の指先だ。
それは輪郭をなぞるようにこの唇へと辿り着くと、親指の腹で一撫でして。
すれば倒れ込むようにふわりと寄せられる郭嘉の身体。

鼻につく酒と女の香り。
ひっそりと馨る墨の香り。


「俺では駄目、か…?」


糸がほどけ落ちるかのような郭嘉の声。

訳が判らなくなる。
一方的な抱擁はとても深いのに、その両腕は酷く優しくて。
強引なはずなのに、その体温は酷く甘やかで。
肌と布越しに、初めて聞く郭嘉の心臓の音。

息を呑む。
その振動すらも音として捉えられるような近い距離。

初めての距離。





「触れる事を躊躇う程に…、
 お前をこんなにも想い煩っているのは俺だけだというのに…」





迂闊にも心が、鳴った。





「───なら」


されるがままにされて、両脇へと垂れたままだった腕を持ち上げて郭嘉の背中へと回す。
回すといっても添える程度で。
すがるでも甘えるでもなく、ただ添えるだけ。

郭嘉の肩が僅かに揺れた。


「なら奥さんとちゃんと別れて」
「───…」
「そうしたら考えても…いい」
「…そうか」


必要な距離の全てが埋まった。
そんな気が、した。


「将来の選択肢の一つとして、だけど」


そしてその距離は結局。


「…ならば、それ意外の選択肢などこの俺直々に握り潰してくれるさ」





私を、郭嘉の元へとしか導かなかった。



馬岱に続き、趣味100%な郭嘉でした。
『恋の山には孔子の倒れ』とは『恋をすれば、賢人と言われる人も盲目になる』ということ。

郭嘉といえば三国志戦記と蒼天航路の郭嘉は結構好きですね。
蒼天航路といえば賈クがかなり好きだったりするのですが。(笑)
あ、曹操様は三国無双が一番です。(聞いてない)