「儂が眠っている時に勝手に近寄るな。
 近寄れば無意識の内に斬るぞ。
 ───…死にたくなくば、くれぐれも気を付けよ」





そう告げた曹操様は、無表情なようでいて何処となく痛々しかった。



心地良さに敢えて目を閉じる。

小鳥のさえずりが聞こえる。
木々のざわめきが聞こえる。
外廊下に差し込む午後の陽射しが閉じた瞼越しにもその穏やかな陽気を伝えた。


「……平和、よね」


平和。
一時とはいえ、まさに世は平穏そのものだ。

だからといって曹操様の心が休まることなど無いのだろうけど。


「こんな日は木陰でゆっくりと昼寝なんて最高…よね、きっと」


そう呟いて、自分の腕の中にある書簡の山を見とがめ苦笑する。
自分は今上司に頼まれて、執務を曹操様の元へと運んでいるというのに、と。
仕事中に何を考えているのか、と。
それに自分だって部屋に戻ればまた執務漬けなのだ。
昼寝なんて夢のまた夢、
随分と遠い次元の話になってしまったものだと他人事のように思った。


「平和、か…」


平和なのだと、思う。
けれどそれは見せ掛けだけのものであるようにも思えて。
言ってみれば『嵐の前の静けさ』。
次の戦が、近いのだ。
だからこの平穏がこれから迎える戦故にもたらされているものなのではないかと思うと、
少しばかり胸の辺りが詰まる思いがした。


「曹操様。です」


扉前で警護の親衛隊兵と軽い挨拶を交わし、
そのまた奥にある曹操様の丞相執務室の戸を叩く。


「………?」


しかしながら返事が無い。
普段なら『入れ』なり何なりの極短い一言が即返ってくるのに。
───まさか、昼間っから女でも連れ込んでんのかしら…?


「かと言ってねぇ…」


このまま引き返す訳にもいかない。
というか大量の書簡を抱え続けてきたこの腕の痺れ具合が無駄になる。
それに、女を連れ込んでいるにしては静か過ぎるし。
何だろう。
気になる。


「失礼します」


仮にも一国の主に無礼よねぇ、なんて人事のように思いながらも、
もう一度戸を叩き、了承も無く押し開いた。
はっきり言って両腕の方が限界だったからだ。

すると。


「……曹操様?」


そこに、確かに曹操様は居た。


「寝て、る?」


ただし当人は夢の中、だったが。


「………さて、どうしますか」


執務室を満たす、静かな寝息。
珍しく、不作法にも窓枠に身を寄せ、時折涼やかに吹き込む微風に身を預けている曹操様。
その寝顔は穏やかというには程遠いけれど、普段のそれよりは幾分柔らかなもので。
何だか微笑ましかった。

見ていたい。
当然にそんな欲求が湧く。


「あ」


見ていてふと、微風になびく曹操様の零れた髪に気付き、そうもいかない事を悟る。
いくら温かな季節とはいえ、ここは魏。
このまま放っておいては風邪でもひきかねない。
何か掛けるものはないかと周囲を見回すが、
やはり丞相執務室にそんなものがあるはずもなく。

仕方無く、というか僭越ながら自分の纏っていた薄羽織を掛けさせて貰うことにした。


「………」


起こさないようにと細心の注意を払って腕の中の書簡を執務卓へと置く。
音一つ立てなかった自分に心の中で拍手を贈った。
そしてなるたけ布擦れの音を立てないよう心掛けて近付く。
近付いて、後数歩で手が届くという所まで辿り着いたところで、
さっと脳裏へと甦ったのはつい先程告げられた曹操様の言葉。





『儂が眠っている時に勝手に近寄るな。
 近寄れば無意識の内に斬るぞ。
 ───…死にたくなくば、くれぐれも気を付けよ』





判ってる。
曹操様はこの乱世を平らげ、新たな天下を切り開く…"勝利者"。
だからこそ、その覇道を築くための権力と自身の命とを守るに、
日々汲々とせざるを得ないことを。
臣下や部下達の前では威風堂々として、常に他を圧倒し、
あたかも恐れを知らぬが如く豪気に振舞う曹操様だけれども、
その裏腹に、自らの命を狙う者への警戒心と恐怖心は異常と称せる程に強い。
当たり前と言えば当たり前の事なのだろうが、
時にそれらに対する冷酷そのものの奸計が芯より恐ろしいと思うのも事実。
常に刺客、暗殺の危険に己の命が晒されているという状況を自覚しているからこそ、
曹操様は自らの保身のためならば、他人の命を犠牲にすることも憚らない。

一瞬として心休まることの無い孤独。


判ってる。





───否、判ってる気になっていただけなのかもしれない。





「───ッ!!?」





突如、眼前の空気が斬り裂かれた。





「!」
「あ、危なかった…」


一瞬どころか半瞬もなかった。
目先には、すっかり目を覚ましたらしい曹操様。
低い姿勢で下段から上段に向かい横薙ぎに払うかの如く、容赦無く振り抜かれた倚天の剣。
咄嗟に脊椎反射で身を捩り、後ろに大きく飛び退いたおかげで、
何とか紙一重に避けることができたが、その一重はまさに文字通りの"首の皮一枚"。
眠っていたというのに、きっちりとこの首を跳ね飛ばす軌道を描いた一閃。
僅かに擦ったその刃の先端は、この首筋に薄らと朱色の線を引いていた。

足下には、空中で斬り付けられてふわりと裂け落ちた薄羽織。
はらりと散り落ちる、幾筋かの自分の髪。

そして目の前には。


「───…」
「ええと…とりあえずおはようございます、曹操様」


初めて見る、零れんばかりに目を見開いた曹操様の顔。


「………
「はい、何でしょう」


ゆったりと剣を脇の鞘に収めると、溜め息と共に呼ばれた自分の名。
それを聞き取ってようやく、ちりっと首筋に痛みが走った。
利き手で浅い傷口を抑える。


「儂が眠っている時に勝手に近付くな、と…そう申したはずだが?」
「ええ、まぁ確かに言われましたけど。
 折角のうたた寝を妨害するのはかなり気が引けまして」


ここ最近、執務でほとんど寝ていらっしゃらなかったのに勿体無いじゃないですか、と。
言えば、思いっきり見せつけんばかりに赤ら様で盛大な溜め息を吐かれた。
何だかこれって夏侯惇と同列扱い…?


「近寄れば無意識の内に斬るとも告げたはずだ」
「そうですね」


曹操様の腕がこちらへと伸ばされる。
その意図はいまいち掴みきれなかったが、されるがままに大人しくしていると、
「おぬしは本当に…」と零して更に苦笑された。
おそらく、今し方殺されかけたというのに、
その相手にそこまで無防備になるとは呆れたものだ、とでも言いたいのだろう。
別に誰に対してもこうして無防備になるわけじゃない。
相手が曹操様だからこその、この手放しの無防備。
そう思うからこそ在りのままを告げれば、乾いた温かい指先が首筋の血の滲みに触れた。
細い針のような痛みに僅かに肩が竦まる。


「…冗談だとでも、思うたか?」


先程とは打って変わって感情を欠いたその声色。


「いいえ」


真顔で冗談を言っても、無表情に冗談を言う人でない事は知っているから。


「夏侯惇から聞きました。
 以前、全く同じ事を部下達の前で言った後、部屋へ戻るなり寝た風を装って、
 薄掛を掛けようとした愛妾を斬り殺したそうですね」
「………」
「それ以来、曹操様が眠っている間は、
 側近の者すらも近寄らなくなった…───貴方の思惑通りに」
「…そうだ」
「此処に来る前に夏侯惇に釘を刺されたんですよ」


そう、丞相執務室に向かうにあたって、夏侯惇に"虫の知らせ"として今の話を聞かされた。
『前例がある。用心するに越した事は無い』と。
言って私の頭を優しく撫でた夏侯惇は、何処か寂し気に微笑っていた。


「あやつめ…」
「ふふ、後でお礼を言わないと」
「………おぬし、死ぬところであったのだぞ?」


だのに何故、それを知っていて尚そのような自殺行為に出たのだ?、と。
訝し気な面持ちを疑問と共に寄越される。
『それ』とは愛妾を斬り殺した事で。
『自殺行為』とは要するに、寝ている曹操様に薄羽織を掛けようとした事で。
そうした自分の、曹操様にしてみれば不可解もここに極まれりな言動に、
本気で理由を問い詰められてしまう。
意外と基本は一点収束型の思考なのよねぇ、とまた思わず笑みが零れた。

曹操様の眉間の皺が一つ増えた。


「まぁ…確かにうっかり死ぬところでしたけど」


別段深い理由なんて無い。
けれど強いてあるものとするのならそれは単純且つ明快な帰結。
そう、それはただ。


「曹操様が風邪ひいたら嫌だなぁ、と」


そう思ったから。
ただ、それだけ。


「………何?」
「だから、勿論斬り殺されるのも嫌ですけど、
 それ以前に曹操様が風邪を召されるのは嫌だと思いまして」


確かにその剣筋は予想以上のもので、忠告があったとはいえ危うく命を落としかけたけれど。
だからといってそこに特別な理由が存在するかと言えばそんなことはなく。
というか、私なんぞの一挙一動に崇高な理由を求められても困る。


「風邪など典医に掛かればいずれ治るが、消えた命は戻っては来ぬのだぞ?」
「それはそうなんですけどね。何ていうか…気持ちの問題というか」


ついには諌めるような口調でそう確認を取られて、苦笑する。
だって仕方無いじゃない。
自分の思考なんてそんなものなのだから。


「大切なものと同時に自分を天秤に掛けるなんて器用なこと、私にはできませんから」


できないのだから、仕方無い。


「おぬしはこの儂を"大切"、だと…?」
「はい」


床に無惨に臥せる、先程までは薄羽織だったものを拾い上げて軽くはたいた。
折角曹操様から下賜して頂いた物なのに…、なんてぼそりと呟いたら、
「そのような物を惜しむな。一歩間違えれば御主がそうなっていたやもしれんのだぞ?」と、
「そんな顔をするな…ぬしが望むならばまたいくらでも贈ってやろう」なんて言われる。
何だか酷い殺し文句を言い寄越されたような気もするが、
とりあえず「ありがとうございます」と、素直に喜んでおいた。

曹操様が、笑った。


「ならばもしまた儂が転寝をしていたら、こうして薄羽織を掛けようとするか?」
「ええ、掛けますよ」


ただし今度は、危なげなくその剣をかわしきってみせますけどね、と。
今や単なる2枚の布になってしまったそれを抱きしめ答えれば、
曹操様は、今度は柄にもなく困ったように笑って。


「本当におぬしには良い意味で調子を崩される…」


淡い色合いのそれを胸に抱く私ごと抱き寄せて。





「残念だが、今後儂がおぬしにこの剣を向けることは一切あるまいて」





儂の狂気の"鞘"であるおぬしに、と。

そんな甘ったるい台詞を直接耳に吹き込まれた私はとえいばそれから。
曹操様専属の昼寝のお供をさせて貰えるようになった。



で、その内に夜の寝所にも連れ込まれてしまう訳です。(笑)
いえ、『曹操様は決して人前で眠ることは無かった』というこのネタは、
以前から書きたかったモノなので、こうして書き上げられて満足です。
というか、曹操様になら斬られても本望ですけどね、私は。(重病)

実はこれ『イエース祭』様の方へと献上せん!と書き出したモノなのですが…
見事に"笑い"な一品とは真逆の方向へと完結してしまったために此処へ…む、無念…!(汗)