至り得て幸福


「───…って具合に、その美人のお姫様に怒られちゃったわけです」
「ほう」


今日も今日とて執務の合間に挟む、他愛も無い会話。
他愛が無くとも貴重なものであると、自分にそう認識させるそれの相手といえば、
自分の最も信頼する部下の一人でもある
これもまた従兄弟でありまた親愛なる片腕でもある元讓が戦場で拾って来た娘だ。

実年齢よりも幾分大人びた容姿もさることながら、
その比類無き華麗な武、その論理的且つ閃きの冴え渡る智。
思いもかけない拾い物だ、と。
今でこそ違うが、当時は正直そう舌を巻いたものだ。
何はともあれ紆余曲折を経て、
は今や魏を代表する武将・軍師の一人となり此処に居る。

こうして微笑って、己のすぐ傍らに。


「なかなかに得ることのできない貴重な経験でしたね」


そのがこっぴどく叱り付けられたのだという。
それも保護者もどきである元讓や信頼の厚い同僚の武将達にではなく、
後宮以外の者でありながら我が宮中を闊歩していたという姫君に。

話をしばらく聞いていて、ああ、と。
その曰くの"姫"に思い当たりはした。
おそらくついこの間、
貢物として自分の元へとやって来たこの許昌近郊の豪族の娘のことだろう。
外見は人並み以上であるのだろうが、特に機智に富んだ会話ができる訳でもなく、
"誇り"と思い込んだ肥大な自尊心だけは人並み以上という、
面白みも無い女だったように思う。
外交面上とりあえず無視するわけにもいかず、一晩抱いて親元へと適当に送り返したはずだ。
夜伽はそれなりに確かなものだったように思うが、
顔の方はどうにもほとんど思い起こすことはできなかった。


「くく…っ、しかし御主に対して『身分を弁えよ』、か…」
「久々に聞きましたね。
 ここへ来た当初は耳にタコができるかってぐらい言われたもんですけど。
 でも今や私とて微力ながらも一応、魏軍の一武将なんですけどねぇ」
「何が一応か。魏の"黒き風"として敵国の畏怖を一身に集める御主が。
 まぁ確かに御主の名は魏唯一の女将軍として魏のみならず広くに知れ渡ってはいるが、
 やはりその人相までは聞き及べぬのだろうよ」
「ええ、それはそうでしょうね。
 まぁそれに、私もその日ちょうど女官の格好をして城下街へと遊びに行ってたんですよ。
 しかも帰って来てからもしばらくその格好のままで、
 夏侯惇や張遼なんかと立ち話なんてしちゃってたもんで。
 たぶんそれを見掛けたせいもあって、
 私のことを女官の一人だと更に思い込みを深めてしまったんでしょうね」


『下賤の者が、身を弁えなさい!
 女官不勢が将軍様に対してあのような馴れ馴れしい口をきいて…、
 厚かましい事この上無いッ。
 一体誰付きの女官なのかしら?ああ厭だ、厭だ。
 いいこと、お前のような厚顔無恥の輩がこの貴き宮中を穢すのよ!?
 如何に将軍様方がお優しかろうと見過ごし許せることではないわ』

博覧強記と誉れの高いの記憶力によるのだから、
おそらく一語一句として違えてはいないのだろう。

『…何ですの、その目は!』


「それで右頬を打たれたと」
「あはは、一緒に居た女官の子達なんて真っ青になって固まってましたよー」


とりあえずは大人しく女の罵倒を聞き入れていたらしいのだが、
どうにもその女官としての丁寧で完璧な態度が、
先程までの武将達に対するそれとはかけ離れたその態度が、
まるで『自分はあれらの武将達にとって特別な存在である』とでも女には映ったのだろう。
更にその自尊心を助長し、煽り付けたようだ。
掌ではなく手の甲で振りかぶって打たれたらしいの頬は軽く鬱血していた。
しかもよくよく見れば、その形の良い唇の端も小さくだが切れて瘡蓋ができている。


「…何も殴られてまでやることはなかったろうに」


見えずとも武人であるがそこらの女の平手打ちなど躱せないわけがない。
敢えて避けなかったのだ、何かしらの意図を持って。

けれど。
その端の切れた唇を親指の腹でなぞって、
顔も思い出せないその女に軽い殺意を覚えたのも事実。


「あら、だって次に会った時彼女がどんな顔をするか楽しみじゃないですか?」


かと思えば次の瞬間には既に、そうだ此奴はこうもそれなりに捻た女なのだ、などと。
さも愉快気に口元を歪めている自分。

は本当に興味深い。
自他を問わず無条件に目を引く。
見目が整っているという所為もあるのだろうが、
しかしそれを差し引いてもあまりあるその存在感。
他の誰とも似ない、その流水を思わせる独特の雰囲気や口調。
女だてらに武術を嗜み、実際に戦場で多くの戦功を立てているという反面、
甄姫仕込みの楽を奏でさせれば壮麗、舞を舞わせれば流麗と、
全く遜色無しに併せ持つ女の性。

しかし何よりも、この興味をそそり立ててやまないのはその言動。


「まぁそれに、彼女の言うことにも一理有ると思うんですよ」
「一理と、な?」
「はい。私が他の武将や軍師の皆を名や字で呼んだり砕けた態度を取るのは、
 友情とか親愛の情に裏打ちされているものであるし、明示黙示を問わず互いに心得てます。
 だからその点では彼女のお叱りは完全な勘違いの産物なわけですけど。
 しかしですね。
 今はこうして何の気兼ねも無しに世間話になんて花を咲かせてるわけですけど、
 殊に話が曹操様に関してとなると、友情だとか相手の了承だとか、
 そういったもので全てが処理できるってものでもないでしょう?」
「ふむ、確かに」
「生憎私は夏侯惇なんかと違って必殺・強面なんて持ち合わせていませんから、
 文句を垂れる相手を目線で殺す…失礼、黙殺…でなしに黙認させたりはできませんしね」
「はっはっは! 確かにな!」
「そこまで大笑いして頂けると、
 私も命を張ってウケを狙った甲斐があったというものですよ。
 実際、曹操様や他武将に対する私の無礼不遜な態度に、
 不満を持っている者もまだいくらかいますしね」
「くく…っ、なに、どうせ羨みや妬みの類いであろう。
 言いたい輩には言わせておけば良い」
「ええ。皆にもよく言われるので、もうかなり前から完全放置してます。
 …まぁそんなこんなで、彼女の言うことにも一理有ると、そう思うわけです。
 ───というかいつまで笑ってらっしゃるんですか、曹操様…?」


年齢の差や生まれ、育ちがどうこうの問題ではなく、
そもそも人としての種類が違うのではないかと、本気でそう思わせるような、
自分には持ち得ない視点から常に多角度的な思考の巡らされたそれは、
時に酷く感覚的であったり、また理論的であったり。
無論自分でも自覚のあるこの基本は一点収束型の思考をほどよく散らしてくれる。
必要な時に必要なだけ、鬱陶しい代物となることなくこの思考をほどいて見せる。


「ともすれば、曹操様に関してはきちんと礼節を改めた方が良いのかな、なんて。
 少しだけ思ったりもしたわけで」
「…ほう、例えばどのようにだ?」


問えば返される猫科の笑み。
そう、こうした類いの表情を見せる時などには必ずといっていい程、
何かしらのそうした言動をは実に鮮やかに披露してみせるのだ。


「ふふ、例えばですね」


御丁寧な事に、時に罠まがいの含みをもって伏線を巡らせるそれは、
見事に更なる期待を煽りなどし、またその期待が裏切ることは決して無いのだから、
ある意味郭嘉よりも恐ろしい。
身構えているというのに受け身の一つも取らせぬその言動。


「もし殿の御許しさえございましたら…」


そのしなやかな心が生み出す言葉と揺らぎ。





「これより我が最愛の御殿を…"我が君"と、そう厚くお呼び申し上げ奉りたく存じます」





この心を、かようにも掻き乱す。





「───…」
「…? 曹操様?」
「いや…ふむ。よ」
「はい」


来い、と。
片腕を伸ばし広げてこの腕の中へと呼び寄せる。
対して不思議そうに小首を傾げながらも素直にその数歩の距離を詰めるを、
距離の全てが詰まりきる前に、有無を言わさず引き寄せ腕の中へと納めた。
自分よりも幾分高い体温。
細く柔らかな身体。
ともすれば猫のような甘い仕草で身じろぐに、
また気を良くして気付けば口元を満足気になど緩めている自分に気付く。

ああ、この存在の。
何と愛しいことか。


「曹操様…?」
「しばらくの間はその尊称を使え。
 ああ、だが謙譲語はいらぬ。今のままに話せ」
「は?」
「"我が君"…ふふ、なかなか良い響きよの」
「はぁ…まあ、気に入って頂けたようで何よりです」


想う我が心の、なんぞ純らかなるものか。


「無論、事の最中にもだぞ」
「………そればかりはお約束しかねますね」


なんと欲深きものか。


「まったく…"我が君"は少々我慢が足らない、
 少しばかり御自身の欲求に素直過ぎるきらいがありますね…まぁ今更ですけど」





この確たる至福の、なんぞ誇らしきものか。



このSSは70000hitsのキリバンを申告して下さった、たかこ様へと捧ぐSS。
『not悲恋な曹操様夢』ということでこんな感じになりましたが…いかがでしょうか?
というかながらくお待たせしてしまってすみません…!(汗)
こんなSSですが曹操様への愛だけは無駄に詰まっていますので、
少しでも楽しんで貰えれば嬉しいというか昇天できそうな感じです。(笑)