「…何を思うて笑っておるのだ?」


それは相手が貴方だからですよ、と。
言葉にするには少々血が足りな過ぎた。


至上者


「御主のそれは諦めから生じるそれではなかろう。
 むしろ今生たる願いの成就を得た人間のそれだ」


さすが曹操様。
全くもってその通りですよ。
思ってもやはり声を発するだけの体力はもはや残されていなかったから、
代わりに口元で薄い笑みを作って見せた。
それも少々の嘲笑を加えて。
まぁはっきりいってそれは、ほぼ無意識に近いようなものであったのだけれど。

曹操様の片眉が、僅かにだが一瞬ひくりと引き攣った。


「何が可笑しい」


敢えて答えるのなら、己の立場を思って、だろうか。


「答えよ。呉将、


そう、私は呉の武将だ。
この世界に来てすぐに孫策様に拾われて、
気付けば自身の意志でもって兵士として立ち、果ては呉将として取り立てられていた。
そのことに不満は無い。
むしろ願っても無い幸運だとさえ思った。
呉の人々には本当に良くして貰ったから。
少しでもその恩とも言えるものに報いたい、何をもってか返したいと思っていたのだから。
確かに人を殺すという行為には、感情だとか、我慢だとか、慣れだとか。
捨てるべき代償は多く、そのどれもがとても大きいものだったけれど。
それでも、こんな得体も知れなく不審であったろう自分を温かく迎えてくれた人達の、
その笑顔と幸せを護れるのならばと選んだ生き方だったから。
これぐらいのことしか、自分が彼等に返せるものはなかったから。
後悔などしていない。
するわけがない。


「答えよ。その命、絶える前に」


だからこそこうして、殿軍として此処へと残った。
大切な人達を護る後ろ楯となるために。
囮として敵陣を撹乱し、撤退する呉軍のしんがりとして。
ああこれはもう間違い無く死ぬんだろうとは思ったけれど、不思議と迷いは無かった。

結局父と呼ぶことはできなかったけれど本当に父のように接してくれた孫堅様。
とにかく豪快で、けれど必要とあれば冷静にもなれる頼りがいのある孫策様。
少々融通の利かないところはあるけれど、とても慎重で気遣いに満ちた周瑜様。
しとやかででも芯の通った大喬に、明るく元気一杯で一途な小喬。
宮中でも戦場でも夜通ししゃべり倒した尚香に、いつも気にかけてくださった孫権様。
自他ともに認める悪友の甘寧に、年が近いせいか良く一緒に遠乗りに出かけた陸遜。
それらを保護者の視線で見守ってくれた呂蒙と黄蓋に、
孫策様の行動にはいつも一緒に頭を悩ませた太史慈。
無口だけど良く手合わせしてくれた周泰。

大切な人達。
大好きな人達。


「答えよ、


それらを護り抜いた結果。
私は今、こうして宿敵魏軍の総大将である曹孟徳の御前へと、
生け捕られ、そして息も絶々に引き出されている。


「何故にそのように笑う」


テレビの画面越しには見られなかった冷えた鉄じみた声と表情。
まさに乱世の奸雄の名に恥じぬ気迫。
ああ、得した。
なんて。
考えている私にはもはや、致命的に血が足りていないのだろう。


「…身体を残して、魂を飛ばしたか?」


どうせ自分にこれより先があるわけでもないのだし。
まぁいいか、と。
呼吸をするだけでも身体中から流れ出していく血や、
その都度開いた感覚が明瞭になる傷口を無視して喉から声を絞り出す。


「まさ、か」
「ほう…まだ口がきけるか」
「勝手に殺さないで、欲しいも、の、ですね」
「ふむ、確かに死に損ないには惜しい良い瞳だ」
「それはどう、も…」


ああ、血が足りない。


「───私、は、呉の者、です」


たったこれだけを言葉として発するのに、予想外にも随分と息が上がった。
どうやら自分でも思っている以上に、
死に、片足どころか両足を突っ込んでいるのかもしれない。
それでも一旦開き直ったからにはとりあえず、言いたいことは言っておこうと。
たとえ途中で息絶えても、全てを言葉にできなくとも、
きちんと一々丁寧にはっきりと言葉にしてやろうと、思って喉を張る。

と、戦火で焼け付いた喉の内側が裂けた。
ただでさえ貴重な血液が溢れ出し、逆流して内臓にしみる。
気道にも入って思わず咽せた。
痛い。
肺が音を立てて潰れそうだ。


「仲間を、無事逃が、す、ことができ、た…」


だんだんと意識だけが冴えていく。
同時にあらゆる先端は冷えて、重く鈍くなって。
首筋の肌に感じていた倚天の剣の感触も気付けば何とも鈍いものとなっていた。

もう、そろそろ本気で限界か。


「代わりに貴様は今まさに死なんとしているがな」


大分白んできた視界を探り分けて曹操様の顔を捉える。
微塵の崩れもない圧倒的なそれはまさに覇者そのもので。
不謹慎にもまた、改めて惚れ直した。


「そうです、ね。
 でもだからこそ、今こうして流れいく血も、薄らいでいく意識も、
 その全てが私の誇りとして感じられる…、
 大切な者達と生きた証として、この死を受け止められる」


誰かのために生きたいとか、誰かのためになら死ねる、なんて。
そんな殊勝なことは思わないけれど。
どうせ死ぬなら自分のためではなく、自分以外の誰かのために死ねたらとは思っていたから。
言い方は良くないかもしれないが、わりと調度良い。


「でも…」


さて、初めて曹操様にお目にかかったのはいつだったか。
確か虎牢関で、まだ田舎武者扱いの孫堅様が反董卓連合に身を寄せていた頃だ。
その時はミーハーもいいところに格好良いだの渋くて素敵だの、
何やらそんなことを心中騒いでは随分とはしゃいでいたような気がする。


「死んだって我国である呉を裏切るつもりなど皆無なんですが…」


けれどいつからだろうか。
そんな好奇心まがいの想いが恋心なんて代物へと変わったのは。

一人の軍師として、武将として過ごすようになって。
いつからか戦場が仕事場であり居場所となって。
ともすれば乱世に生きる曹孟徳という、史実でも、文字の中でもなく、
現実に同時並列、現在進行形でもって存在する、
一人の人間としての生き様のその多くを目の当たりにするようになってからというもの、
ただ浮ついただけだった感情はいつしか憧れとも呼べるような慕情になり、
その憧れも気付いた時には既に遅く、想い煩うに胸を痛める程のものへと昇華していた。


「それでも、こんな風に口の端が上がるのは…」


本当にどうしてだろう。
虎牢関で孫策様の護衛兵として物珍しげに声を掛けられたのが最初で最後なのに。
それ以外には何の接触も無かったというのに。
それでもその時の声と笑顔は、
この胸を占める切実な想いを不毛にも育てるには十分過ぎるもので。

身体という器にひびが入ってしまった今や、
それを塞き止めるのはもう、限界で。


「それは貴方、だから」


止まらない血と共に、とめどなく流れ出す感情。


「私を死なせるのが貴方、だから」


そう、貴方のことがこんなにも愛しいのだと。





「ほら、恋焦がれる相手になら殺されても本望って言うでしょう?」





なんて、確固たる言葉にしてしまえば、ねぇ。
この口元はどうしたって緩まざるを得ないのだ。





「気でも触れたか」
「まさか。体中痛過ぎる上に冷え過ぎて、正気も正気ですよ」


もうすぐにでもただの肉塊へと変わる寸前なのだろうこの身体の扱いにも慣れたもので、
そんなことばかりに器用でどうするとは内心ツッコミつつも、
咽せず、息も乱さず、そして明確に裂けたこの喉は発音できるようになっていた。


「もう言いたいことは全部言ったんで…さぁどうぞ」


もはや肌はほとんど何も感じない。
身体の半分ぐらいはもうただの肉塊と化してしまったんだろう。
感じられるのは内側から逃げていく熱と、外側から染み入ってくる寒さだけ。
視界はほぼ白に浸食され滲みきってしまっているし、
耳鳴りは酷くて、曹操様の言葉もいまいち上手く聞きとれない。


「やはり御主は変わった女よの」
「……良く、言われます」


そういえば、曹操様との最初で最後の会話でもそんなことを言われたな。
『女の身で戦場に立つとは見た目通りにも変わった毛色の娘よな』と。
『どうだ?いっそ儂の元へ来ぬか?』と、どこか楽しげに笑って。

…まって。
今曹操様は何て言った。


───『やはり』?


「あれだけの年月が流れたというに…、
 一護衛兵から呉を表する武将まで昇り詰めておきながら、
 あの日よりその気高さは何一つとして損なわれてはおらぬというのだな」
「な、に…?」
「忘れたか、虎牢関での巡遭を」
「!」


曹操様の声に僅かにまともな視界が戻って来る。
それこそ必死の思いでその声に縋って顔を上げれば、
そこにあったのは予想以上に近い、また何処か得意気な表情。
酷く自信に満ち足りた男の、顔。


「まさか…覚え、て…」


覚えてなんているはずがない。
あんな一言二言の、会話と呼ぶにも足りないようなやりとりを、
乱世の覇者たるこの曹操が他軍の一兵士との言葉など覚えているわけがない。

ないはずのに。


「ふふ…、この曹孟徳を侮るでない」


曹操様が、そんな楽しげになんて笑うから。


「───っ」
「動くな。無駄に血が流れる」
「だって…っ」
「そういえば、あの時も御主は『良く言われます』と、そう申したな」
「そんな、ど、して…」


どうして自分は横抱きになんて抱え上げられているのだろうか、とか。
どうして自分は額に口付けなど落とされているのだろうか、とか。
どうして自分は泣いているのだろうか、とか。

即座に理解できないことは山程あったけれど。


「確か戦場でもって孫策に拾われたのだったな、御主は」


その腕はとても暖かく、愛しいもので。





よ。御主は今、この曹孟徳が拾った」





だからこれからは儂のものだ、と。
高らかに笑うその表情は、虎牢関で見たそれと何一つ変わってはいなかった。



ちょっと趣向を変えた曹操様SSを。
いやはや、この間のアンケートで思った以上にたくさんの人が、
ウチなんぞの曹操様SSを見にきて下さってるとのことで。
うっかり調子になんて乗って曹操様強化月間とかしでかしそうな心意気です。(笑)