結び
掌
「殿」
中庭に面した外廊下の、その庭園と城内との境となる段差に腰を掛け、
ただ静かに雪景色を眺めていた少女を発見し、
早る胸を抑えつつその背中に向かって名を呼んだ。
呼んだところ返ってきた反応といえばいつものあの笑顔でも軽い挨拶でも何でもなく。
「何か違う…」
「………は?」
そんな独り言ような呟きで。
「んー…」
どうしたってこちらが立っているために見上げる形になってしまうだろう自分の顔を、
立ち上がることもなく、その細い腰を捻ることもなく、
座ったままに後ろに腕を突っ張って、上体を反らし見つめ上げてきた。
黒く長い髪が、さらさらと肩口を滑って零れ落ちる。
その仕草に、柄にもなく胸が疼いた。
「やっぱり違うわよね…」
「殿?」
深沈とした湖面のような瞳でもってじっと視線を注がれ、
彼女独特の流水を思わせる透明な声色でもってそう呟かれては、
そればかりに意識が集中して、次に紡ぐべき言葉も浮かばずひたすらに困る。
一時の沈黙。
「…一体『何か違う』のです?」
やっとの思いで辿りついた、口を吐いて出た返答といえばそんなものだった。
「張遼のこと」
形の良い唇が、自分の名をなぞる。
心の臓があからさまに脈を打った。
この胸は、相当に重症なようだ。
「───は?」
「いや、この前ね。徐晃に稽古つけて貰ってたときに聞いたんだけど」
艶やかな黒髪。
白い肌。
整った顔立ち。
そんな城内の女官にも引けを取らない容姿を持つ彼女だが、
その実魏の天才軍師・荀イク、ひいては郭嘉のもとで兵法を学び、
戦場では参謀もしくは副将としてその知略と細い腕を振るう立派な魏の一武将だ。
護衛兵として戦場へと出ていた当初は我流もあってか、いかんせん即実力はあるのだが、
荒削りもいいところでその類い稀なる武才を食い潰している、と。
周囲をして嘆かせていたものだったが。
しかし、一旦基本を習得してしまえば後は乾いた地面が降り注ぐ雨を吸収するように、
教えれば教えただけ着実にものとし、更に自らの型へと昇華させていった。
本人には実感が伴っていないようだが、流麗に刃を舞わすその細い両の腕は、
今や他の武将にも引けを取らないような代物にまで磨き上がってしまっている。
その上、未だに衰えを見せないその成長ぶりには本当に舌を巻くものがあった。
それ故久々に教え甲斐のある逸材だと徐晃殿や夏侯惇殿と話す事も度々あった。
あったのだが。
自分の預かり知らぬところで、自分以外の誰かと鍛錬を積んでいる彼女を想像して、
この胸は明らかに不快感を訴えている。
そんな自分にそれ以上の嫌悪を覚えた。
「……って聞いてる、張遼?」
「あ、ああ。聞いている。それで?」
本当?と。
訝し気に表情を歪ませた彼女に内心嫌な汗をかきながらも冷静を装って話の先を促す。
すると自分の様子にもそれ程興味が無かったのか、それとも敢えて見逃してくれたのか、
さほど気にした様子もみせずに表情を元に戻すと、またゆったりと口を開いた。
「まぁいいけど。…そう、それでね。
張遼が合肥での武勇から『張来来』って呉の人達から恐れられてるって聞いたの」
「…ああ」
彼女の口を介すことで、ちくりと細い痛みを生むその呼び名。
『合肥での武勇』。
それはおそらく合肥で呉の軍勢十万を五千の兵で相手にし、
七百の兵で敵本陣へと奇襲を掛けたたことを言っているのだろう。
そういえば、あの時、殿と共に援軍として現れた彼女に、
泣きそうな顔で叱責されたことを思い出す。
『心臓に悪いのよこの馬鹿! ──…ちゃんと生きてて良かった…っ』、と。
その言葉に、その震える声に、この心が酷く深くまで満ちた感覚を今もはっきりと覚えてる。
「『張来来』って聞くだけで、呉じゃ子供の夜泣きもおさまるんですって?」
そんな自分の回想を余所に。
「母親は助かるわねぇ」なんて、くすくすと、本当に可笑しそうに笑うから。
胸を刺す痛みは幾分その影を潜めた。
「でも、何か違うと思って」
「違う?」
自分へと向かって伸ばされる細い腕。
伸ばされた自分といえば、突然のことにどう対処して良いか判らず。
けれど判らないままにもこの手はその細い指先に触れ、絡め、
しっかりと掌を重ねていた。
「張遼って意外と体温高いのね……だって張遼って美術品とかに詳しいじゃない?」
「…? それは、まぁ…」
「一緒に城内歩いてる時とか、
聞けばなんて事は無く作者やら何やらあっさりと教えてくれるし。
美術品を見てる張遼って凄く優しいっていうか…柔らかい表情してるのよ?」
それこそ、無機物相手にこっちが嫉妬しちゃうくらい、と。
そんな冗談めかした彼女の軽口にも率直に、さっと熱をもって反応するこの身体。
どうかこの熱が、この掌を通じて彼女にまで伝わらぬよう。
「それなのに『張来来』なんて、敵国からとにかく恐れられてるっていうじゃない?
だから違うなって思って」
『恐れられてる』。
再びこの胸を刺す細い針のような痛み。
彼女の唇に触れることでまたも痛みを生み出すその言葉。
私が戦っている姿を見たら。
返り血に塗れ、泥を纏い、殺意という冷酷な熱を帯びた自分を見たら。
貴女もまた私を恐ろしく思うだろうか。
「…でもまぁ、アレよね」
「『あれ』?」
「そう、アレ」
やはり上体を反らしたままに、掴んだ掌を繋げたままに。
その深沈と静まった瞳に穏やかな色を浮かべて彼女は微笑って。
おそらく苦く歪んでいるだろう自分の顔からも一切の視線を外さずにゆったりと口を開いて。
「こうして私の無駄話に根気良く付き合ってくれる優しい張遼も素敵だし…」
掴んだ掌が、指先が絡み具合を深めて。
「戦場で鉤鎌刀振るって先陣切ってる張遼も勇ましくて格好良いし」
その猫のような綺麗な笑みも深まって。
「どっちの張遼も好きなのよね」
この拙い心の満ち具合もまた、果てしなく深まるのだった。
「───貴女は本当に…」
「本当に?」
「本当に恐い人だ」
恐い、と。
心からそう思う。
「何それ…もしかして喧嘩売ってんの?」
「はは、まさか」
生きてきてこの方、これほどまでに自分の感情を乱せる者はいなかった。
それでいてどこまでも安定させることができる者などいるはずもなかった。
こんなにも奥深くまで入り込んで来れる者がいるなどとは思わなかった。
けれど。
「女に面と向かって『恐い人』なんて失礼よねぇ」
この心を満たせるのも、壊せるのもおそらく貴女だけ。
「でもまぁ…」
だからこそ、どうかこれからも傍に。
「張遼の心を"泣き止ませる"ことができる"恐さ"なら、それもいいかもね」
何よりも恐ろしく、そして愛しい人よ。
顔に似合わず声が高いなぁ、なんて認識の文遠殿。
この人も誠実な大人の雰囲気が好きです。
…たとえ花柄の鎧とかフリルのついた服でも。(笑)
しっとりとした雰囲気を醸し出せたら良いなぁと。