君が為
惜しからざりし
命さえ


殿」
「何、張遼?」
「もしも私が死んだらどうする?」
「は…?」


自分を後ろから甘く抱きしめるその人から、
突然降ってきた思いもよらぬ問い掛けには一瞬息を呑んだ。


「何、急に…」
「私が目の前で一言すらも残す事もできずに、
 実に呆気無く事切れてしまったら貴女はどうする?」
「───張遼」


咎めるというよりはむしろ戒めるかの様に。
幾分温度の低い、平板な声を作り上げてみせたは張遼の腕の中で身体ごと振り向く。
一方顔色一つ変えず、ただ静かにその声と視線を受け止めた張遼。
窓の向こうには薄灰紫にくすんだ空。
粉雪混じりの風が乾いた感触を残して二人の頬を撫でた。


「貴女のそんな顔初めて見たな」


先程の乾いたそれとは打って変わって、温みを伴った、
困ったような笑みを浮かべた張遼は軽く肩を竦めて一つ息を吐く。


「どうしてそんな風に笑うのよ?」
「さあ…」
「どうして急にそんな事言い出したわけ?」
「何故でしょうな」


その表情も仕草も態度も、普段と何一つ変わりはしない彼自身のモノ。
何一つ変わってなどないのに。

それ故に感じる違和感。


「まったく…、何かあったわけ?」
「あったように見えますかな?」


そして、彼は促すばかり。


「はぐらかさないで」


ただ静かに。


「ならば、先に私の問いに答えて頂きたいものだ」


求めるばかり。





「…どうもしないわよ。張遼をむざむざ目の前で死なせたりしないもの」
殿らしいな」
「───…私は答えたわよ。さぁ、今度はそっちの番」


強い視線を受けて張遼はの背後、窓の向こうに広がる灰薄紫の空へと視線を流した。
それが彼女の目にはどう映ったのか。
少なくともお気に召すものでなかったらしい。
一向に答える素振りを見せない彼の、そのほどいた髪を無造作に一房掴むと、
乱暴とまではいかないが、軽く痛み伴う程度の力で引っ張り寄せた。

張遼の顔が細さ故の鋭さを持つその痛みに一瞬、歪む。


「無視してんじゃないわよ」
「…貴女が時折り見せるそういった本能的な行動には、本当に酷く煽られる」
「そんな事聞いてない」


そうしてようやく視線を絡めたと思えば、今度は絡めたままでなどいられないような、
そんな艶めいた台詞を確信犯の表情でよこしてくる。
の眉間にまた一つ皺が増えた。

音も無く流れる時間
冷えた沈黙。

が。


「もういい」


まさに最終手段とでも言うように。
冬の湖面の如く、感情という色彩の褪せた瞳でもってそう告げた後、
片手でその胸元をとんっと押し返し、腕から逃れて戸口へと向かい歩き出したの行動は。


「───…っ、殿!」


見事。
張遼に白旗を挙げさせた。









「…何なの」
「申し訳無い」
「そう…それで?」


見る者の背筋を底冷えさせる、何も望んでいないような瞳の色。

普段が周囲に見せる感情は種類も量もとても豊かだ。
素直に笑って、腹を立てて、涙を見せて。
けれど、豊かとはいえ不快な憤りに任せて拳を振り上げたり、
深い悲しみに咽び泣いたりといった"激情"の類いを露にすることは滅多に無かった。
それは彼女が、外へと吐き出すことで始末を付けるのではなく、
自身の内へとしまい込むことで、そういった激情を処理する性質の人間だからだ。

本気で怒らせてしまった。
張遼は己の稚拙さを恥じ、内心自身を叱咤した。


「申し訳、無い…」
「そんな言葉が聞きたいんじゃない」


けれど、そうは言いつつも肩で溜め息を一つ。
冷ややかな雰囲気を幾分和らげ、反らした背を返すとは真っ直ぐに張遼に向き直る。
張遼も今度ばかりは真っ直ぐに口を開いた。


「何があったという訳じゃない。
 笑ったのどうしようもないと思ったからで、
 突然こんな事を言い出したのは…まぁ何となく、だな。
 それと貴女の問いをはぐらかしたのは…、
 いや実際には、はぐらかすつもりなど無かったのだが。
 本当にどう答えていいか…判らなかった」
「…それこそ判らない」
「それはそうでしょうな」
「張遼」
「こればかりは仕方が無い。私自身も良く判っていないのですからな」


判らない、と。
互いに口にする二人は、そこから先へと進むことができず。
かといってやはりそれを無かったことにするなどできない二人は、
しばらくの間、中途半端な距離でもって向かい合っていた。

窓の外に広がる灰薄紫色も未だ翳ったまま。


「ただ、思った。
 もし今この一瞬、自分に死ぬという感覚が訪れるとしたら、
 その瞬間に私は一体貴女に何を口走るのだろうかと」


今はこうして一人の男、一人の女として共に過ごす自分達は、
時期が変われば魏の一武将として、血生臭い戦場で日々命の略奪を繰り返している。

意識していようとも、無意識であろうとも、
これまでに多くの現実を命がけで生き抜いてきて。
目を反らしても、反らさずとも、
いつ死んでもおかしくはないという現実をこれからも生きて行く。


「最後の一瞬に、私は貴女に何を言えばいいのだろうか…」


堪えるように両瞼を伏せると、ふいに頬へと触れた温もり。
のしなやかな指先。
その白い手に自分のそれを重ね、指を絡め、そのまま口元へと運ぶ。


「どの想いを残したらいい…?」


それに淡く唇をひとつ落として、自分が選ぶべき選択を相手に迫る。






「忘れるな、とは言わない。
 言ってしまえば、それは言霊となって貴女を永遠に縛りつけてしまう。
 だが、忘れろとも言えない。
 何を犠牲にしても、貴女の中だけには残りたいと願う自分がいる」






この矛盾した想いの、
一体どちらを選べばいい?






「幸せになれ、とは言わない。
 貴女が自分以外の男と微笑んでいる光景はやはり何処か我慢ならない。
 だが、幸せになるなとも言えない。
 例えそれが私のためでなくとも、やはり貴女には微笑っていて欲しいと祈る自分がいる」






この交錯した想いの、
一体どちらを捨てればいい?






殿、貴女ならどれを選ぶ?」


貴女にとってどの想いこそが真に必要なんだろうか。


「張遼、私は…」


溢れ返った感情を無理矢理瞼の奥へと押し込めて。
微かに震えた白い手をもう一度柔らかく握り直して自分の冷たい頬へと導く。

粉雪が風に混じって部屋へと舞い込む。
空気が熱を奪っていく。


「こんなにも私は貴女に執着してしまっている…」


冷たい冬の風が乾いた感触を残して指先を掠めた。





「───何一つ残さないで」
「それはつまり何も言わずに逝け、と…そういう事か」
「そうよ」
「…………」
「ただ、その時は私も連れて逝って」


はっきりとそう言い切るに、張遼は僅かに眉根を寄せた。


「想いも言葉も何一つ残さない代わりに、私を…それごと私を持って逝って」


揺らぎの無い漆黒の双眼に、気付けば呼吸することを忘れていた。


「私への想いも言葉も全部、残すのなら私の中だけに残して私ごと連れて逝って」
「私は貴女を連れて逝く気など毛頭無い」
「ふふ、張遼ならそう言うと思った」
「───殿」
「でもね、本当に私は張遼に死んで欲しくなんかないし。
 最初に言ったように絶対に張遼をみすみす死なせたりしないから。
 だって張遼がいない世界じゃ、私の存在なんて何一つ意味を成さないもの」
「…一応念のため聞いておきたいのだが…、
 どうやって死に逝く私をこの世に引き留めるつもりで…?」


そう問えば、はにこりと一つ柔らかい微笑を浮かべて。





「『張遼が死ぬのなら私も死ぬ』。
 そう言ったら張遼は、きっと意地でも死んだりできないでしょ?」







「確かに……私は貴女を連れてまで逝く気など皆無ですからな」



判る方には判る、リサイクルな一品。
しかもリサイクルでありながら完成まで相当な時間を要した一品。何だってんだチクショウ。
一度やってみたいと思ってたのでやってみたのですが…リサイクルを舐めてました。
普通に書くより難しいです、リサイクル。