「いい夜だ…」


深き夜の澄み切った空気に、冴えた鋭さをたたえた蒼銀の月。
それを浮かべて、なみなみと輝く杯の酒。
遠くに屈もって聞こえる宴の喧噪。

そして。


「本当ね」


傍らには。
明年祝う朱の着物に身を包み、銚子を手にして月を見上げる彼女。


「夜も更け、月も冴え、しかも傍らではこうして美しい女性が酌してくれるのだからな」
「それは光栄。でも、お世辞言っても何もでないわよ?」


可笑しそうに笑いながらも、そろりと杯へと酒を注ぐそのたおやかな所作は、
戦場にて"黒き風"との異名をして畏怖を集めるその姿を想像し得るものではなく。
本当はどこにでもいる年頃の娘なのだと。
本来なら戦場などとは無縁であるべき人間なのだと。
今更ながら、切ない思いにとらわれる。


「さぁ次をどうぞ、今宵はまた格段と素敵な殿方」


そして酌と共にふわりと香る、白梅香。
漆黒の髪へと添えられた生華の牡丹簪の香り。

本当に今更ながらも。
彼女は女性でありまた一人の女であるのだと。
そう、肌で実感させられた。


「そうそう、張遼」
「何ですかな?」
「どう、また新たに年が明けた感想は?」


彼女への恋慕など、とうの昔に自覚している。
されどなお、曖昧に保たれているこの詰まらず離れずの距離。
周囲からは見ていて歯痒いと苦笑を食まれることもしばしばな関係ではあるが、
けれど、この距離感を良しとする自分が存在することも確かで。


「そうですな…」


澄んだ冬の夜気。
空には見事な銀色の月。
砂金を散らしたかのような星々。
喉を焦がす美味い酒。
甘やかな華の香り。
隣には愛しい彼女。
一時とはいえ平和な世。

幸福だ、と。
そう思える要素を自分はこんなにも得られていて。

本当に自分は満たされていると思う。
これ以上のものがあるかと聞かれたのなら、おそらくいくらでもあるのだろう。
けれど自分にはこれだけで十分だと、そう思える。
否、これだけで"も"十分だと、そう言い切れてしまう。


「また一年、死なずに生きて終わったのかと…そう思いますな」


けれど、欲を言えば。
気の利いた台詞の一つでも吐けるような器量が欲しいなどと。
考えてしまうどうにも一貫性に欠けた自分にはやはり厄払いの一つでも必要だろうな、と。
内心、少々浮かれているらしい心を窘めた。


「いや、まぁ、張遼らしいと言えば張遼らしい、至極尤もな感想ではあると思うけれど…」


穏やかな苦笑。
ああ本当に、人並み程度にも回らないこの口が憎い。


「確かに好きだけれど、そういう張遼らしい台詞も」


酒を月ごと飲み干せば、何を言わずともまた彼女は静かに新たな水面をこの杯へと注ぐ。
とくり、とくり、と。
ゆったりと満たされる杯。
どくり、と。
ほんの些細な単語一つに、見事に跳ね上げられるこの心の臓。

どうかこの心の揺らぎが、指先にまで伝わらぬよう。


「どうせなら、ねえ?」


どうか、この甘やかで心地良い酔いが消えぬよう。





「"初めて貴女と二人明かした夜"、なんて言ってくれたら嬉しいのに」





ああ、時などこのまま永久に止まってしまえば良い。





「あら張遼、顔真っ赤よ?」
「…っ」
「少し飲み過ぎた?」
「は?あ、いや…」


実に何気なく、いとも容易く。
子供の見せるような邪気の無い仕草でもってこの顔へと伸ばされるそのしなやかな指先。
ひやりとした感覚を伴ったそれは掠め取るように頬をなぞり、とどまり、そして添えられた。
息を、呑む。

気付けば、眼前で明らかに意図して細められていた深い黒曜の双眸。


「───それとも、何か色めかしいことでも想像した?」


確信犯の、猫科の、女の笑み。


「張遼、その顔…最っ高にか、可愛い…っ」
「!!」


かと思えば、伸ばしていた片手を引き戻し口元へと添えると、俯き加減にそんな事を言う。
腹の底から本気で笑っているらしい彼女は、
無言ながらも堪えきれない様子で両肩を震わしていた。
先程まで女の表情を敷いていたその涼やかな目許には薄らと涙すら滲ませて。
時折くつくつと声音を伴って零れる正面切っての忍び笑い。
年相応とでも言おうか。
艶やかな表情はもはや跡形も無く消え去って。
ただ在るのは、大人でもなく子供でもない時間的中性さを帯びた、
彼女だけが持つその独特の穏やかな雰囲気。
自分が最も好む、彼女のそれ。


「まぁ、張遼とならそれもいいかな、なんて思うけれど」
「………殿、酔っておられるのか?」
「さあ?」


もはや自分は、とうの昔に手遅れだったのだ。


「何はともあれ。今年も宜しくね、張遼」
「…ああ、こちらこそ宜しく頼む」


ならば。


「今年も…そしてこれから初めて明かす二人だけの夜も」
「!」
「言ったのは貴女だ」


いっそ存分に開き直って。


「あれだけ私を再三煽ったのだ…今更前言を撤回できるとは思いなさるな」
「参ったわね…張遼がここまで潔い男だとは知らなかったわ」
「はは、それこそ光栄。
 ならばこれよりその身をもってしかと知り尽くして貰うのみ」
「何それ、大胆な上に不敵」


困ったようにでも、楽し気になんて微笑う貴女に。


「どうせなら初日の出もちゃんと二人で見たいから……お手柔らかに、ね?」





今宵今晩、身体ごと。
貴女を想うこの心の全てを曝け出して見せようか。



このSSは、張遼の素敵年賀絵を下さった柳月水様へとお礼として書かせて頂きました。
あんな素敵なイラスト貰っておいて何も返さないとあらば武士の恥…!と。(何)
『張遼夢』で『ラブラブな二人』とのリクエストだったのですが…いかがでしょう?
少しでも楽しんで貰えたのなら嬉しいです!