『好き』とは一体どんなものだったか?
もう、思い出せない。
感覚
錯覚
自覚
「陸遜」
「! …これは、殿。どうしてこのような所に?」
一面に広がる草の海と蒼い空、浮かぶ白い雲。
久方ぶりに吹き抜ける風を全身に受けて、降り注ぐ陽の光を全身に浴びた。
心地良い。
増えることはあっても減ることはない仕事の合間を縫ってやって来たそこは、
久しく感じていなかった"爽"で満たされていた。
「迷惑だった?」
「そんなことはありませんよ」
「そう。良かった」
そこへ、不意打ちにも柔らかくそよぐ風の様に姿を現した彼女は、
当たり障りの無い万人向けの、実に気の利かない自分の返事にも嬉しそうに眼を細める。
相手のそんな些細な仕草に無意識に口元が緩んだ。
気付けば自分も笑っていた。
「それで、一体どうして此処に?」
「こだわるわね」
とりあえず隣いい?と、きちんと断りを入れてくる彼女の"らしさ"にまた、
今以上に緩みそうになる口元をどうにか抑え込む。
抑えて、ぐっと堪える。
そうして『どうぞ』と出来得る限りさりげなく自分のすぐ横へと促せば、
ありがとうと言葉を紡いで彼女は、ふわりと腰を下ろした。
その距離にとくん、と。
心が一つ脈打った。
「ここしばらく仕事漬けだったでしょ、陸遜?
だから僭越ながらこの私めがちょっとした業務妨害を加えて差し上げようかと思ってね?」
「業務妨害、ですか」
何やらとんでもないような気がしてならない単語の出現に、一瞬反応が遅れる。
すると彼女はそんな自分の様子を面白いものでも見るかのように、
更に楽し気にその瞳を細めた。
「そう業務妨害。
まぁ要するに、『一緒にお茶でもどう?』ってことだったんだけど。
それでお誘いをと、とりあえずそっちの部屋にいったんだけど…いなくて、ね。
どうしたんだろうと思って、通りがかった陸遜のところの部下を捕まえて聞いたら、
馬を引いて外に出ていくのを偶然見かけましたが…、って教えてくれたのよ」
「見られていましたか」
「何。悪事でも働こうと思ってたの?」
「はは、まさか。心配を掛けてしまったと思いまして…護衛兵にも、貴女にも」
深沈と静まった細波も立たない水面を思わせる彼女の黒曜の瞳は素直に綺麗だと思う。
鼓膜を振るわす、流れる水を思わせる透明度の高い声色は酷く心地良いものと感じる。
そして何よりも敬いの念を抱かせてやまないのは、その思考の柔軟性。
時に海のように厳かに、何人も許容する深い包容力であったり、
しかし時に周瑜様すらも目を見張る凍牙のような切れ味を発揮したりと、
相反する両極の面を持ち合わせているそれは、酷く興味深い。
本当にどこまでも"水"のような人だと、そう思う。
「気にしない、気にしない。
こっちが勝手にしてるんだから」
そして何よりも、この"何気なさ"がこそが周囲をして"流水"と言わしめる由縁か。
「で、何悩んでるの?」
「悩み? 何のことです?」
「ふぅん…まぁ、言いたくないんだったらいいんだけど」
きっとそんな彼女のことだ。
相手の内に踏み入ろうと思えば、それは洪水にように暴力的に押し入ることも、
降り注ぐ細雨のように優しく沁み入ることもできるだろうに。
けれど彼女は、無断で相手の内へと土足で踏み込むような真似は決してしない。
「…まったく、適いませんね」
こちらから招き入れねば、彼女は湖のように静かにその境界線へ佇むだけ。
「───『好き』とはどんなものだったか、考えていました」
ああ、自分が考えている事といえば本当に彼女のことばかりだ。
「は? 『好き』?」
「はい」
随分と哲学的な悩みねぇ、と。
からから笑いながら蒼い空を仰ぐ。
黒い髪がさらさらと風になびいた。
「『好き』、ねぇ…」
駄目だ。
本当にどうしようもない。
見るものすらも彼女ばかりじゃないか。
「昔は…幼い頃は見るもの触れるものに、心動かされるものに『好き』、と。
素直にそう口にしていました。けれど…今はそれができないのです」
「どうして?」
「『好き』と思うことに、
それを無条件に口にすることに抵抗があるといったらそうなのでしょうけど…。
それよりも何を以てどんな要件がどれだけ揃って初めて人は何かを『好き』だと思うのか。
そんな思考ばかりが先行するんです」
いつからだろう、そんな風に人と距離を置くようになったのは。
笑顔という壁で物事を拒むことを覚えたのは。
「ねぇ。もしかして陸遜って『好き』って言われるの『好き』じゃないでしょう?」
「え…?」
軍師として人を数で処理することを覚えたあの頃からだろうか。
「『好き』って言われるのが苦痛なんじゃない?」
「それは…」
「痛いとまでは言わないけど、辛い。
それか、『どうして自分にそんなことを言うんだろう』ぐらいに感じてるんじゃない?」
「!」
あの日から。
陸家の当主となったあの瞬間から自分は、感情による視界の一切を遮断した。
「……『好き』と、そう言われるのはきっと…嬉しいのだと思います」
「うん」
「でも、『好き』だと言われる度にこの胸は、どこかしらから確実に冷めていく…」
孫家に一族を滅ぼされ、叔父より一族の行く末を託され。
生きていくには弱いままでは、無知なままではいられなかった。
勿論、清廉なままでも。
相手をのぼせ上げ、自分をへりくだし、その反動で引き摺り落とす。
この手を汚し、穢し、紅く染めて。
騙し、騙され、嘘にまみれてここまで這い上がってきた。
だから。
向けられる感情と言えば、それはやはり負の潜むものばかりで。
そのうちに、どれが負を含んでいて、
またどれがそれ以外なのかを判断する余裕すらなくなって。
ともすれば、判断することすら次第に忘れて。
温かな感情に対する感覚は薄らいでいって。
気付けば。
自分に向けられる好意の全てに影を垣間みて、
全ての感情が鈍っていく自分を当然のように感じていた。
「そう。でもそうすると、それはもう私がどうこう言える問題じゃなくて、
結局どこまでも陸遜の内での問題よね」
「…ええ」
境界上からこちら側を覗き見ておいて尚静かに佇み続ける彼女。
その距離感に一時の居心地の良さを感じ、一抹の寂しさを感じた。
もどかしい。
何て身勝手な。
相反する感情。
それは偏に一方的と判っていても捨て切れないこの気持ち故。
何て未熟な、中途半端な。
そんな居心地の悪さに酔って、更にぐらつくこの想い。
けれど。
「でも、あたしは陸遜のこと『好き』よ?」
「───! 何、を…」
この上なく不安定な自分に、その想いに。
実に呆気無く重心を与えたのは、
この場には相応しくないようで、それでいて酷く相応しいような彼女の言葉。
「ねぇ、『好き』ってそんな深く考えるようなことじゃないと思う」
蒼い空を映し、鮮やかな色合いの瞳。
「案外身近に、存外たくさん、そこら辺に転がってるようなものだと思う」
吹き抜ける緑風が運ぶ、透明な声。
「ただ、それを地に膝を付いてでも拾い上げるかどうかは陸遜自身の問題だけどね」
ああ、そうか。
そういうことだったのか。
僕は好意を向けられることに恐怖を感じていたのではなく。
ただ拾い上げるために足もとを見るのが恐かっただけなんだ。
「───私は…」
一族を背負う自分が、上に立つものである自分が。
歩んで来たのは爪を剥ぐ傾斜と皮膚を裂く茨の道。
それでも常に前を向いて。
ともすれば上だけを向いて進んで行かねばならず。
下を向いてはならないと。
一旦足下を視界に収めてしまえば。
痛みを直視してしまえば。
そこで自分は壊れてしまうのではないかと。
激痛に立ち止まり、後悔に足を捕らわれ。
前のみに向けられていた重心がそれ以外に向いてしまえば後は跡形も無く。
ただ後ろへと。
そのままどこまでも、果てしなく落ち行くだけなのではないかと。
「僕は恐かった…っ」
そう、恐かったんだ。
「それでも、例え陸遜が泣きたい程に怯えても」
そして。
「私は陸遜が『好き』よ」
───僕はこんなにも、貴女のことが『好き』なんだ。
「だから私はね」
泣き出す一寸前。
酷く情けない顔をしているのだろう自分の目前へと回り込み、そっと片膝を付く彼女。
「とりあえずこうして『膝を付いて』陸遜を『拾い上げて』みようとしたりするんだけど?」
どう? 拾われてみない?と、この頬を優しく撫でる彼女に。
「───どうせなら、僕に拾い上げさせて貰いたいものですね」
貴女を、と。
我ながら軍師らしさの欠片も無く。
駆け引きもへったくれもなく、そう告げれば。
「言っとくけど、私はポイ捨て不可よ?」
やはり微笑って。
『好き』とは一体どんなものだったか?
───それはきっと、僕が想う貴女。
非常に長く、途中が重く、読み難いだろうと思われ。
まるで陸遜考察のようなこのSS。
それでも『青い春』をテーマに必死に甘くしてみた、つもり…だったり。
image music:【 風の果て 】 _ RUI.