それは普段と何一つ変わらない、何気ないただの朝の挨拶であるはずだった。


「おはようございます、殿」
「いよぅ! 


振り返った彼女の表情だって、普段のそれと変わらなくて。
なのに。


「ああ、おはよう。甘寧、陸遜殿」


呼ばれることにいつの間にか小さな幸せを見出していた自分の名前に、
見せつけられた他との差。


僕は君の
傍にいて


「───…陸遜殿?」
「え?」
「どうしたんです、ぼーっとして?」
「え、いや…何でもありま、せん」


不思議そうにというよりは訝しむような視線を寄越してきた彼女に、
何とか"いつも通りの"笑顔を作り上げて、取り繕って見せる。
すると、そう?と別段後を引くような関心も見せずに彼女は甘寧殿の方へとその視線を戻した。
反らせようと思ってその思惑通り自分から離れて行った彼女の目線。
だというのに、ちくりとこの胸を刺す、細い痛み。


「それにしても、珍しい組み合わせね」
「そうかぁ?」
「そうよ。真面目と不真面目の代表が連れ立って歩いてたら誰だってそう思うんじゃない?」
「不真面目ってーと…もしかして俺か?」
「他に誰が」


極打ち解けたように、敬語も無い砕けた物言いを交わす二人。
そんなもの遠目にも見慣れた光景なのに。
他愛も無い会話というのに。
間近で目にするそれは、今ばかりは酷く胸の奥を軋ませた。


「まぁどうせ軍議の連続遅刻記録更新中の不真面目代表を見かねた周瑜様が、
 真面目代表の陸遜殿に呼びに行かせたってところなんだろうけど」
「…へっ、細面軍師さんの説教なんざ軽く聞き流してやるさ」


確かに甘寧殿はその豪快で兄貴肌な性質から部下や同僚にもとても慕われているし、
彼女だって流水を思わせるその自然体、存在感から、
性別、身分を問わず周囲の者達から広く好かれている。
そんな二人がこうして親し気に話していること自体には、何の不思議も矛盾もない。

しかし。


「あら、流水の如く怒る周瑜様ってかーなーりー、恐いわよ?」
「う…っ!」


それにくらべて自分は、と思う。
判ってる、それが自分勝手な疎外感であることは。
けれど考えれば考える程、感情は制御を失って、
いつもにも増して遠い場所から見下ろしている傍観部分。


「………ばっくれっかな」
「なに、阿呆な事言ってんのよ」


甘寧殿と楽し気に話す彼女のその表情は普段と何一つ変わらないように思うのに、
けれどそれでいて普段のそれとは全く違うもののような気もするから。
自分に向けるそれとは明らかに違う種類のものであるから。
この胸を満たす、酷く不安定な揺らぎ。
こんなにも近くに居るというのに、どこか遠くへ追いやられたような不安感。


「折角陸遜殿がこうして迎えに来てくれたのに、ねぇ?」
「え…? あ、そ、そうですよ、甘寧殿」


と、突然同意を求められて反射的に現実に引き戻される。
目の前には、予想以上に近くにあった彼女の顔。
心臓がひとつ大きく跳ね上げられる。
つられて上擦りかける声。
不審に思われたのではないとか一瞬背中に嫌な汗を感じたが、
向けられた笑顔に、それが杞憂だと気付いてそっと胸を撫で下ろした。


「逃げないで下さいよ」
「ふふ、なら私もお目付役として一緒に周瑜様のとこ行こうかしら?」
「てめぇ…楽しんでやがるな」
「あーら、そんなことないわよー?」
「目が笑ってるぞコラァ」


また、置いていかれる。
そう思ってしまえばもう。





「───どうして私は陸遜"殿"なのですか…?」





思考など押し退けて、文字通りの"身""勝手"にも開いてなどいるこの口。





「は?」
「だってそうでしょう?
 甘寧殿は呼び捨てなのに…他の方々にだってほとんど呼び捨てにしていらっしゃるのに、
 どうして私だけは陸遜"殿"や陸遜"軍師"なのですか?」


言えば、眼前の二人は酷く驚いたように目を見開いた。


「いや、何でって…ねぇ?」
「まぁ…なぁ?」


ねぇ?、なぁ?と顔を見合わせる二人。
またも胸をじりじりと焦す、苛立ちにも似た感覚。


「陸遜殿とは会ってまだ日が浅いですし、あまり話したこともないでしょう?」
「甘寧殿とは良く話すのですか?」
「まぁ、俺らはよく飯とか一緒に食うしなぁ」
「呂蒙や太史慈、周泰とかも、ね」


嫉妬、なのだろう。
今までこれ程までに自分の感情を強く認識したことなんて無かったから、
それが嫉妬という赤ら様な心の揺らぎであるとの確証は持てなかったけれど。
文書やら他人の話やらから聞き及んだ知見から分類すればそれは、やはり嫉妬というもので。
今にも暴れ出しそうなそれを、どう制御したものかさっぱり判らない。


「それに…」
「それに?」
「陸遜殿って生真面目な人柄だったから…いきなり馴れ馴れしいのもアレかと」
「そんなことありませんよ」
「はぁ…、ないんですか」
「ないですね」


"面食らった"。
今の彼女の様子を一言で表すのなら、それが一番しっくりくるだろう。
一体自分は今まで彼女にどんな印象を持たれていたのだろうとも思ったが、
隣の甘寧殿も似たような顔をしていたので、
まぁそんなものだったのだろうと言及するのは止めた。


「あと…」
「あと?」
「そっちだって敬語でしょう?」


今度は自分が目を見張る番。
確かに、と。
今更ながら思い当たる。

敬語などもはや癖のようなものだった。
何処に仕えても周囲は皆、自分よりも一回りも二回りも老練した者達ばかりで。
そこでは当然のように自分が一番の若輩。
指摘されたことなど一度も無かった。

そうなのだ。
こんなにも歳の近い同僚なんて彼女が初めてだったんだ。


「───なら話しましょう」


ああ、彼女と居ると本当に"初めて"ばかり。


「…は?」
「宜しければ私の部屋へ。
 この間、尚香様からとても美味しいお茶を頂いたんですよ」
「え、ちょ、ちょっと待って…」
「私の部屋がお嫌でしたら中庭にしましょう。今頃は桃が見頃ですしね」
「いや、だから、あのね…?」


狼狽。
今の彼女の態様を二文字で表せばそれだろう。
虚を突かれて展開についていけず、困惑したような彼女の声。
それにも敢えて気付かぬふりで話を押し切る。

ああ、どうしよう。
一旦自覚してしまえば、後は堰を切ったように溢れ出す感情。


。腹括れって」
「どんな腹よそれ…っていうか楽しんでるわねコノヤロウ」
「へへっ、まぁな」


またも半眼でそんなことを言い合う二人の、その仲に割り込むようにして取った彼女の手。
「へ?」と、ほんのりと目を見張った彼女を少々強引にもそのまま自分の方へ引き寄せた。
ぱちぱちと瞬きする彼女。
こんな表情もするのかと。
思ってしまえば、どうしたって緩んでしまうこの口元。


「それでは」
「ああじゃあな、若軍師さん」
「ええ。周瑜様に宜しくお伝え下さい」
「ちっ、俺も腹括るかな…」


気付かなかった。
否、見て見ぬふりをして過ごしてきただけかもしれないが。

自分はこんなにも彼女のことを───


「どこが『宜しければ』、なのよ…」


まずは私に時間があるかどうかを聞くのが先じゃない?と、
言ってこめかみから髪を掻き揚げる彼女はまったくもって呆れたようで。
けれど一方的に繋いだ手を、振りほどいてくれたりなどしないから。
呆れられるままに彼女の手を引いて歩く。


「まったく…意外と自分の感情に素直なのね」


握り返された掌。


「まぁ、いいけど」


彼女が微笑った。





「それは良かった。
 では私の部屋と中庭、どちらに向かいましょうか」
「そうねえ…それじゃあ"陸遜"の部屋にしますか」
「! 喜んで」



いや、陸遜って開き直ったら一直線な感じがするんですよ。
基本は変化球なんだけど、絶妙なタイミングで直球を投げ寄越してくる、みたいな。