「馬岱」


彼女の声だ。
彼女が自分の名前を呼んでいる。


「馬岱、起きて」


心地良い。
流水の様に涼やかなその声。
もっと、もっと彼女の声が聞きたい。


「こんな所で寝てたら風邪ひくわよ、馬岱」


このままずっと自分の名前を呼び続けて欲しい。


「起きないと…───襲うわよ?」


このままずっと…





「───!!」
「あら残念」


今まで寝ていなかったことが明白な勢いで瞼を上げればそこには、
呆気らかんとまたそんな事を口にする、彼女の整った顔。
予想外の台詞に、予想以上に近いその鼻先までの距離に思考の一切が停止し、
面白い具合に目を見開いているだろう自分を見て彼女は、
にっこりと「目、覚めた?」と問うた後、ふわりと心持ち意地悪げに微笑った。


「もう少し目を瞑っててくれたら、唇ぐらいは奪えたのに…本当残念」
「な、何を…っ、何を仰るのです!!
 というか何を考えているのですか貴女は!?」
「馬岱の事とか?」
「…!」


もう言葉を呑むことでしか驚きを表現できない。
実際に彼女の漆黒の瞳に映るこの顔は酷く情けない顔をしている。


「馬岱、顔真っ赤」


くすくすと可笑しそうに声を立てて笑う彼女。
その澄んだ深い黒に浮かぶそれからはやはり色まで確認はできないが、
自分でも判る程にこの両頬は熱を持ってるし、指先までもが火照っているのを感じる。


「馬岱にはちょっと刺激が強過ぎたかしら?」
「〜…っ、殿!」
「はいはい。でも私がこうして心配して声を掛けても敢えて"寝たふり"を続けたんだから、
 これくらいの冗談は許して欲しいものだけど?」


けれど未だ軽い口調で紡がれるそれらの言葉は、これ以上の無い事実を含んでいた。

寝たふりをしていたことをあっさりと看破された事にも驚いたが、
彼女の口振りから判断して、自分がこうして時折"寝たふり"をしていた事を、
以前から知っていてなお、今も今までも、
普段と何一つ変わらない態度で接してくれていたらしい彼女の器用さに、
また馬鹿の一つ覚えのように息を呑む。
自分の、諸葛亮殿以外の周囲の予想を裏切って、
飛び抜けて感情を操る事を得意とする彼女を目の前にして、ようやく多少の肚を括った。


「…どうして、判ったのですか?」


素直に白状する。
それは知りたいと思ったから。
どうして、またいつ頃からこの"寝たふり"に気付いていたのかを。


「そうねぇ…馬岱は悩みや急いで考えなきゃならない事があるといつも、
 敢えて人気の無い静かな所を選んで、ただ静かに目を瞑ってるでしょ。
 言ってみれば、わざわざ目を瞑りっぱなしでの集中的な考え事ってトコね。
 それもどんでもなく長時間の。
 しかもそうして"寝たふり"をしてまで考えなきゃならない事柄の内容は大抵、
 少なくとも馬岱にとってはこの上無く深刻ものだったりする」


すると彼女は、私が知らないとでも思った?、と。
今度は幾分堅さを持った声色で、何てことは無くそう言い切った。


「"寝たふり"をするのは考えてる内容を自身以外に悟られたくないから…、違う?」


構えをとっていたというのに、受け身の一つもとれなかった。

手放しで驚く。
長年共に過ごしてきた従兄上ですら最近になってやっと気付いたらしいこの行動を、
出会って本当に間も無い彼女にあっさりと見抜かれてしまったのだから。


「勿論、無理に話せとは言わないわよ。
 無理に話させるために声を掛けた訳じゃないから」


じゃあ何のために?と。
敢えて言葉ではなく、眉根を寄せて問えば彼女は苦笑して。
その細い指でもって上空を示す。
見当もつかないまま、促されるように指先を辿って見上げれば。


「───あ…」
「もうそろそろ降ってくると思って、雨が」


見やれば、いつのまにか清々しい紺碧から重苦しい灰色のそれへと移り変わっていた空。
自分は一体どれ程この場に座り尽くしてしたのだろうか。
全く気付かなかった空の様子と、すっかり喪失していた時間の概念にまたも驚く。

───ああ、彼女と居ると本当に驚いてばかりだ。


「昼前に一度、馬岱を探してた時に此処で見かけて…もしまだ此処に居たとしたら、
 放っておいたらずぶ濡れになってそうだと思って一応念のため見に来てみたのよ。
 そしたら実際、まだこうして"眠れる馬岱"をやってたしね」
「わざわざすみません…」
「別に謝る必要なんて無いわよ。私が勝手にしてることなんだから」


謝るなというその声は何故かどこか楽し気だ。
けれど樹の幹に背を預ける形で座り込んでいる自分からは、
どうしたって見上げることでしか立っている彼女の表情を窺うことはできず。
申し訳無さから俯かせていた顔を上げれば、
自分を見下ろしふわりと落とすように笑う彼女と、
ぬるく湿った風に撫でられさわさわと揺れる木葉が目に入った。
彼女の艶やかな髪もさらさらとなびく。


「…ちょっと待って下さい」
「何?」


見蕩れて、はっとする。
先程の彼女の台詞を反芻する。


「…私を『探しに』?」
「そう、探しに」
「何かあったのですか?」
「別に。特に差し迫った用じゃなかったから大丈夫よ」


それに用って言っても私の個人的な用事だったしね、と。
要するに殿や諸葛亮殿、従兄上からの召集やら何やらではないから安心して良いと、
彼女が言いたいのはそういう事で。


「…なら『個人的な用事』とは?」


けれど安心させようとしたその台詞が、今どれ程この胸を掻き乱していることか。


「ああ、別に大したモノじゃないから。気にしないで」
「気になります」


至極真面目な顔と声を作って尋ねたつもりだったのだが、
自分の顔を見ると彼女は少しばかり意外そうな表情を見せて。
別段彼女の虚を突くような事柄を口にしたつもりはないし、表情を見せたつもりもない。
何がそんなにも意外だというのか。

そうこうしているうちに、空から落ちてきたのは透明な雫。
大粒の雨。

ああ、これじゃあ彼女に無駄足を踏ませたようなものじゃないか。


「…すみません」
「は? 何、急に。どうして馬岱が謝るのよ」
「雨が」
「え?…ああ、本当」
「折角雨に濡れないようにと忠告しに来て下さったのに」
「確かに。これじゃ木乃伊とりが木乃伊になったようなものね…、
 ねぇ、雨宿りなら向こうの木にしない?」


本格的に降り出した雨を避けるようにして二人、華木から大木の元へと走る。
肌を打ち付けるような大粒の夕立ちに、
避難するまでの僅かな間にも随分と濡れてしまったが、
先程寄り掛かっていたそれよりもずっと大きく太い幹を持つそれは、ほぼ完全に雨を遮って。
その根元へと、二人並んで腰を下ろす。

辺りを支配する透明な雨音。
頭上を埋め尽くす濡れた緑。

視界の端に映る、濡れた黒。

しっとりと雨を含んだ彼女とその黒髪。
いつにない艶に、胸の深くがざわりと疼いた。


「……さっき、馬岱を探しに来た理由だけど」


突然、ぽつりと零すようにそんな事を言った彼女に心臓が跳ね上げられる。
しかし、どこか遠くを、はたまたどこまでも遠く見つめているようなその漆黒の双眼は、
隣に座る自分など映すこともなく、ただただ前へと向けられたまま。


「───…」
「…馬岱?」


息を呑み黙ったまま自分の様子に、
彼女は一旦訝し気に眉を顰めた表情をこちらへと向けた。


「何? 急にそんな目見開いて…」
「あ、いえ! その、どうして先程は私を探しに…?」
「……何か誤魔化された気がするんだけど」


一旦、真意を探るかのように不躾でない所作でもってこの両目を覗き込んできたが、
苦し紛れに口を吐いて出た、反復に過ぎないような自分のそんな台詞にも、
結局は騙されてくれたらしく。


「まぁいいわ…そう、それで馬岱を探しに来た理由はね」


ふわりと、一つ柔らかく微笑って。


「やっぱり…傍に居たくなるじゃない?」


彼女が微笑んだ分、縮まった距離。
馨る水の香り。
緑の雨のにおい。


「実はもの凄く想い煩ってたりする人が酷く思い悩んでたりしたら、
 たとえそれが自己満足だとしても、傍に居て、なれるものなら力になりたいと…」


いつの間にか音を失くす雨。





「───馬岱の傍に居たいと思って…ね?」





気付けば彼女を抱き寄せていたこの両腕の存在に、この時ほど感謝したことはなかった。










「…どう?馬岱だから敢えて遠回しにいってみたんだけど…伝わった?」
「私だからというのは…一体どういう意味ですか」


笑いながら返事を求めてくる彼女に、自分も笑って返答をじらしてみせて。


「だって、馬岱って赤ら様に好きなんて言ったら…何だか泣き出しそうだから」
「……何ですかそれは。私だって男ですよ」
「あら。男だとか女だとか関係ないわよ、こういうのは」


そんな事を口にする、この腕の中で擦り寄る猫のように身じろぎした彼女に、
自分の想いを、存在の多くを知らしめるように更に強く抱きしめて。


「それで、"お返事"はいかほど?」


流水を思わす透明な声とその吐息が鼓膜を柔らかく撫でる。


「私の傍に居て下さいますか?」


その心地良さに一旦腕の力を緩め、身を離し。
向けられる真直ぐな視線を真正面からしっかりと捉えて。
漆黒の双眼に映る自分の表情を確認して。





「───思い悩んでいる時だけでなく、今もこれからも果てしなくずっと」





大胆、と笑うその瞼に。
やんわりと唇を落とした。



横光、オリジ、無双顔無し…どの馬岱でも良いのですが、
顔無しならば2の触覚付き顔無し武将の馬岱を想像して頂けると良いかと。
いや、好きなんですよ、2の触覚付き顔無し武将。
「私たちも負けていられませんよ」とか、もの凄く好きです。(笑)
というかそれ以前に馬岱が好きなんですけどね。使用武将にならないかなぁ。

image music:【 翡翠 】 _ 一青窈.