黒
腑
「今回の作戦の展開は僕が説明するよ」
「了解。じゃあ、私は各武将の行動説明をするわね」
つい先日、丞相執務室で師である諸葛亮の袖を仰ぎつつ、
二人、本気で意見を交わし思案をぶつけ合って練り上げた此度の戦の策略。
師からも穏やかな笑顔でもって「満点です」との誉めの言葉まで賜わったこの策。
嬉しさと誇らしさからすぐに地図やら何やらの軍議用再編に取りかかって、
二人は今日を迎えた。
そうして抜け落ちなく揃えた紙類と書簡の束を両腕に抱えて、
姜維とは今まさに軍議室へと向かっている。
「…よし、行こうか」
「ええ、行きましょ」
自分達以外の武将は皆集まっているだろう軍議室の前に立ち、
二人、一度無言で顔を見合わせ頷き合う。
ついで揃って前を見据え、その重厚な扉を押し開いた。
「姜伯約ただいま参りました」
「、参りました。
お待たせしたようで申し訳ありません」
主君である劉備の御前にて一礼。
しかし顔を上げたそこにあったのは、いつものあの功を労う柔らかな表情ではなく。
「うむ。では早速今回の作戦説明を頼む」
彼の人らしくもない、酷く険しい表情だった。
そしてそれは、よくよく見れば周りの武将達も一緒で。
「劉備様…?
…って皆どうしたのよ。作戦説明する前から深刻そうな顔して」
此度の戦は長坂の様に逃げを上策とするような戦ではない。
なのに面々のこの沈み様。
一体何が?と、姜維とは初から予想もし得なかった状況に酷く混乱していた。
「…いえ、つい先程司馬懿殿から書簡と贈物が届きましてね」
「司馬懿からって…それはつまり魏からの正式な書ということ…───って、先生?
な、何か恐いんですけど…?」
「そうですか?」
周囲とも違うが、普段ともまた明らかに違う雰囲気を醸し出す師にざわりと鳥肌が立って、
姜維と共に半歩たじろぎつつが恐る恐ると問いかけると、
諸葛亮は一つにこりと微笑んで「そんなことはありませんよ」と答える。
そしてそのまますうっと白羽扇で口元を隠してしまった。
それだけでほとんど表情が読み取れなくなってしまったりするところが余計に恐いです、と。
心中が呟いたのは、ここだけの話。
「これがその書簡です」
「ありがとうございます。
えっと、どれどれ…うーんと……──はぁ?」
「どうしたの………って何だよ、これ!?」
精悍な品のある文字でもって紡がれた内容は至って単純明快。
魏の姦雄…もとい丞相・曹操がを欲しているということ。
加えて、この書をしたためた司馬懿本人がを正妻に迎える準備があること。
そしてその場合、を魏へと差し出せば、
此度の戦に関してはこのまま陣を退く用意があること。
「丞相! 何なんですか、このふざけた内容は!?」
姜維の怒りもご尤も。
先に諸葛亮から内容の説明があったのだろう。
劉備に加えその場の武将達は、姜維の上げた荒げた声を皮切りに、
みな一様に抑え付けていた不快感と殺気を露にする。
しかし、当の本人は至って冷静。
「まぁ面白い、つっちゃー面白い内容よね」
「何が面白いというのですが!」
呆気らかんと返された反応にぐっと拳を握って、真っ先に非難の声を上げたのは趙雲。
「そうだぞ! あんな悪も極悪な司馬懿なんぞの嫁だぞ!?
お前自分の状況が判ってるのか!?」
続いてこめかみに青筋を添えて叫んだのは馬超。
純粋にの心配と事の重大さでもって声を上げた趙雲に比べて、
彼にしてみればあまりにも飄々としたの態度自体も気に入らなかったらしい。
ついでに言えば曹操への憎悪もいくらか混じっているのだろう。
元より無駄に正義を含んだその声の、耳をつんざくような声量には思わず顔を顰めた。
「耳痛…っ。判ってるわよ、それくらい。
こんなの安い挑発に決まってるでしょ。
一々いきり立たないの。
先生、これの他に贈物もあったんですよね」
「ええ」
「開けちゃってもいいですか?」
「殿にも先程許可を頂きましたから構いませんよ。
ただ、私もまだ中身までは確認していないのですが…なまものではないようですね」
なまもの。
なまものとは要するに、斬りっぱなしの人体の一部だったりする訳で。
それを聞いたと姜維は一旦ひたりと固まったが、
とにかく開けなければ話は始まらない、と。
一度、二人顔を合わせて互いの意志を確認し合い、
意を決して巨匠の細工が施された飾箱に手を掛けた。
すると。
「これは…また」
広間のど真ん中で、一同の前に姿を現したのは目を見張る程に綺羅びやかな女性用の衣装。
「うわー…きれーい。でも何で着物?」
肌をさらさらと滑るなめらかな絹の布地、きめ細やかなそれでいてあでやかな刺繍。
しかも、よくよくみれば金の縁取りが入った靴、美しい曲線を描く髪飾り、
たくさんの宝石があしらわれた耳飾りやら何やらと、足先からてっぺんまで一式揃っていた。
ついでにいうと、色は全て鬱陶しいぐらいに紫を基調としている。
「…、それ魏の花嫁衣装だよ。色はちょっと珍しいけど…」
「は? マジ?」
「『まじ』って…ああ、うん。本当だよ」
「ってことは、これってもしかして私用?」
「たぶん…」
そこはやはり女性、着物の質感を楽しむように布地の表面を撫でていただったが、
それが花嫁のそれだと聞くとその手を止め、さてどうしたもんかと視線を落とし、考え込む。
「一体どこまでが挑発で、どこからが本気なんだか…」
と、が溜め息混じりにそんな事を零すと同時に、
「ッがあぁ!!」という今度は空気ごと振るわす重低音が床に天井にと反響する。
さすがの武将達も皆ビクンッと肩をはじかれ、身体ごと跳ね上げられる。
そしてその爆音の発声源といえば。
「司馬懿の野郎〜ッ!!
可愛い妹分のをあんな腹黒軍師にくれてやってたまるか!」
「まったくだ!
娘のように可愛がっておるをどこぞの馬の骨とも知れぬ軍師になどやれんッ!!」
「よ、お前を病人の元へ送るつもりはない。
何も気に揉む必要はないぞ」
張飛、関羽、劉備の順に、各々の溺愛っぷりを口にする桃園決議の三兄弟。
腹黒軍師やらどこぞの馬の骨やら病人やら、敵ながら随分な言いわれ様だ。
というかあの仁愛の君主まで何気に酷いことを言っている。
続いて。
「…オ前、連レテ行カセナイ…」
「やり方が気に入らないねぇ…可愛い嬢ちゃんをあんな奴らにゃ渡せないよ」
珍しくも誰かしらに問われずとも自ら口を開いたみせた魏延に、
こちらもまた珍しく不機嫌そうになど感情を露にしたホウ統。
その後しばらく武将達はぎゃあぎゃあと魏への罵詈雑言を吐きまくっていたが、
その悪口の内容のほとんどが曹操ではなく、敢えて司馬懿に集中しているのは何故か。
やはり皆、戦場でのあの走りながらの高笑いが気に入らなかったのか。
そして、何やら士気がぐんぐんと上昇しているのはもはや気のせいではあるまい。
「安い挑発ねー。
私なんかダシに使ったって、誰も乗ってこないっての」
士気が上がったのは読み違いとしても、
挑発に乗る乗らないに関しては、実際それなりに功を奏しているのだが。
疎いのか、それとも軍の士気を考え気付いていてわざとボケてみせているのか。
はまたもやあっさりと流しつつ、そう切り返す。
「でも、を挑発の種に使われたのは腹が立つなぁ」
「もう姜維まで。つまんないこと言わないの」
「ごめん。頭では判ってるんだけどさ…」
上目遣いにも、子供を叱るような口調で諌めると、
諌められてもやはりどこか腑に落ちないらしく後ろ手に頭を掻く姜維。
そんな年若い二人のやりとりに、その場の剣呑な雰囲気も幾分和む。
───ただ一人を除いては。
「ふふ…」
ぞくり、と。
熱を身体の芯から奪われるような不可解な感覚に、
一同、鳥肌に全身の肌を総毛立たせ本能的に身を竦める。
部屋の気温が一気に下降する。
寒い、本気で寒い。
窓の向こうではうららなか午後の陽射しに満ちているというのに、
この部屋の気候はまるで雪の舞う魏のそれだ。
しかも肌を刺すでもなく、身体の内側から襲ってくる寒気はどうしたって、
悪寒にも似た感覚を呼んで。
「…ふふ、ふふふ」
それもそのはず。
その寒気の発信源を辿ればそこにあったのはひらひらと揺れる白い羽扇。
「いけませんねぇ…」
どす黒いオーラを発する、今の今まで沈黙を守り通していた諸葛亮。
「───腹腑が煮えくり返りそうだ」
敬語を捨てたその声色に、感情の気配は微塵もなかった。
「魏、ひいては曹操以下の軍師と武将は、
早々に"痛い目に合わす"必要がありそうですね…」
天下三分の計において"潰す"のではないのですね、先生。
というか他の武将に率先して、貴方が挑発に乗ってどうするんですか。
でもまぁ、先生はキレた時の方が容赦の無い分微塵の隙も無い策を立てる人だから、
別段問題は無いんだけど。
にじりと今や数歩も後退している武将達を視界に収めつつ、
内心そう呟いては、やはり大きく溜め息を吐くのだった。
そんなこんなで。
「───先生」
「何でしょう?」
こうして迎えた此度の戦。
「こういうのを人は一般に『職権乱用』って言うんですよ」
「おや、それは気付きませんでしたね」
「…………白々しい」
一軍を率いて出陣するはずだった、
姜維と二人で考え出した秘策の一役を担うはずだったが、
諸葛亮の開き直った蜀の丞相権限と有無を言わせぬ師の威厳でもって、
(敵側への見せつけ兼敵味方共に含めた牽制に)彼の護衛兵へと回されたのは言うまでもない。
ウチの諸葛亮先生は陸遜と同じで、基本的に白。
でもって白と黒の使い分けがとても上手。