空を掴みて


「せーんせ」


涼やかなその声に瞼を上げれば。
そこにあったのは青い空、白い雲。

そして細い腰を折って、自分を見下ろす彼女の笑顔だった。


「おや、このようなところに…どうかしましたか?」


ここは成都を広く一望できる丘の上。
遠駆けと称せる程に離れてはいないが、
しかし馬でも駆けなければ来れるような距離でもない。
そう、まかり間違っても徒歩で迷い込めるような場所ではないのだ。
そこに自分は先より目を閉じ仰向けに寝転がっていて、
どうしてか彼女は、愛馬を遠くに待たせ、
こうして立ったままにも自分を見下ろす形で笑んでいる。


「いいえ。ただ先生の素敵な寝顔を拝見しに来ただけです」


隣いいですか?と、彼女は問う。
拒む理由などあるわけがない。
どうぞ、と。
告げてすぐ隣の草の上を勧める。


「いつ来てもここは、風が気持ちいいですね」
「ええ本当に」


彼女は聡い。
故に所謂"境界線"というものを的確に弁えているから、
そこに土足でずかずかと踏み込んでくるようなことはしないし、
不躾に覗き込むような真似もしない。


「それで何を考えてらしたんですか?」


しかし彼女は人の心の機微に関して天才的に鋭く。
ともすればその流水を思わせる独特の自然体で、
実に巧みに且つ何気なく、この悩みへと触れてみせる。
無論それは、相手に対し自発的に晒し出す機会を与えるだけのものであって、
決して彼女自らが無為に暴き出すようなものではないのだが。

だからだろうか。
だからなのだろう。


「つい先程貴女の声で視界を取り戻した通り、私は目を瞑っていたのですよ?」
「ええ。だから気のせいだとか、そこは触れるなということでしたら黙ります。
 ただしその代わり、先生のお隣でしっかりと惰眠を貪らせては頂きますけど」
「…適いませんね」


さもあれば、悩みや不安といった類いの代物を、
自分以外へと打ち明けることを良しとしない自分にあっても、
気付けば口上へと乗せ、外へと吐き出してしまっている。
そうして事有る毎に、"癒し"とはまた違うそれに心の重荷を取り払われて自分は、
自らが在るべき姿を、心の安定を取り戻しているのだ。

そしてそれは今もまた然り。


「この乱世と…自らの行く末を憂いていました」


三顧の礼を受け、隆中の草廬を出てからこの方、
自分は常に戦についてのことばかり考えている。
乱世という世情と自身の立場を顧みれば至極当然の帰結なのだろうが、
本当に様々な意味で、何と遠くに来てしまったものだ、と。
まるで他人事のような感歎を心中唱えてしまうのもまた事実。


「見て下さい、この空を」


確かに自らの意志でもって出廬した。
自身で選び取った路だった。
全く後悔していないと言えばそれはやはり嘘になるが、
今までの全てを無かったこととして白紙に戻したいとも思わない。


「この紺碧の空に浮かぶ白い雲を」


だが、しかし。
心静かであることを信条としていたついこの間までの自分は、
一体何処へ行ってしまったのだろうか、と。
そう考える度にこの身は、身体の端々から凍えるような感覚を味わうのだ。


「たなびく白雲…まるで今の私のようでしょう?」


隆中に隠遁していた頃の自分は常として心静かであることを良しとしていた。
けれど今の自分はどうだろうか。
日々、戦のための策を弄し、兵を鼓舞し、国政を整え、
効率的・能率的且つ大量的に多くの命を奪う兵器を生み出すことに、
この智の大方を砕いている。
心静かであるとはとても言い難い。
この乱世において誰かしら、何かしらを守ろうとすればそれは、
たとえ他意は無くとも必然的に誰かの命を犠牲とするということ。
誰かの幸せを守ろうと思えば同時に誰かの不幸を求めることとなる。
それは純粋なる現実の帰結であって、そこに疑問やら何やらの生じる余地は無い。
自分もそれを否定する気も毛頭ないし、綺麗事で濁して誤魔化すつもりもない。
けれど。

だからこそ判らなくなる。
自分は一体何をしているのか、と。
自分は一体何なのだろう、と。


「ただひたすらにこの空を漂うことしか知らぬ白雲」


───そう、この心には、何処かしらで確実に躊躇っている自分がいるのだ。

かようにも不安定で中途半端な自己を、
これからも維持してくことができるのだろうか。
白と黒の中間域、灰色の部分を望んでしまう自分を。
もはや完全な白には属せない自分を。

自覚すればこんなにも均衡の危うい自己。
そこには多分に崩壊の危険性をはらんでいて。
壊れてしまったのなら自分は一体どうなるのだろうか。
この躊躇いや罪悪感という理性の箍が消えてしまったのなら。
倫理も道徳も、あらゆる制約を取り払い、黒の部分にのみこの身を委ねたのなら、
自分は感情を持たないただの殺戮の刃となってしまうのではないか?

それはこの身を蝕む得体をもった恐怖。





「私は、乱世という風に流され、引きちぎられ、
 ただただ翻弄されることしかできない白い雲」





そして行き場の無い、懺悔の如き迷い。





「先生」


視界が陰る。
否、狭まる。
焦点を一点に奪われる。

原因は至って単純明快。
実にゆったりと、彼女がこの身へと覆い被さってきたのだ。


「確かに先生は、まるでこの空に浮かぶ白い雲のよう」


彼女の長い漆黒の髪が重力に従ってさらさらとその肩口を滑り、
自分の胸の上辺りへと心地良く流れ落ちてくる。
普段よりも幾分低く抑えられたその涼やかな声が、いつになく近い距離で鼓膜を振るわした。


「遠くから見やれば、紺碧の空にあんなにもくっきりと浮かんで見えるのに、
 実際に触れようと腕を延ばしても、この手は宙を掻くばかり…決して触れることはできない」


触れるには僅かに遠い、けれど引き寄せるには近過ぎるその距離。


「滅多なことじゃ本心を掴ませない、先生そっくり」


そんな曖昧な距離でもって吐息と共に淡い笑みを注がれる。
彼女の指先が輪郭を掠め取るようにこの頬へと触れた。
そして常よりもずっと落ち着いた、
深い雰囲気をたたえる今の彼女の表情は至極穏やかなもので、
彼女が自分だけに見せるその表情に、胸の奥がぐっと甘ったるく沈む。


「でも、それでも」


完全な受け身に徹し、それらの甘やかな重圧をただ静かに甘受する。
ありのままを受け止め、そして受け入れる。


「私に言わせれば先生は。
 雲というよりはむしろ、この空を満たす風…この空の行く末を支配する風」


頭上には紺碧の空、白晢の雲。


「この乱世という空を切り開き、統べる風」


そして、愛しい女性。





「ねぇ、先生は無力なんかじゃありませんよ」





ああ、結局のところ。
自分が生きていく上で抱え込むべきものなど、ただそれだけなのかもしれない。










「───…貴女はどうしてそうも、
 己れにすら把握できていない私を理解しているのでしょうね」
「そんなの決まってるじゃないですか」
「決まっている、とは…?」


相変わらずの至近距離で、くすくすと笑ってそんなことを言う彼女は。


「私が総じて先生のことを好きだからですよ」


などと楽しげに、至極あっさりと言い放ってくれる。


「ということで、宜しければ先生のその利き手とは逆の腕を、
 枕として是非私に貸し与えてやって下さい」


そうしてころりと自分の真横へと笑顔で寝転がられてしまえば、自分が逆らえる訳もなく。
どうぞ、と片腕を伸ばし草の上へと広げてみせる。
ともすればその細い指を添えて、猫のような仕草でもって彼女はこの腕へと頬を擦り寄せた。


「そうだ、誰が起こしに来るか賭けましょうか?」









その後、しばらくして。


「───これは…」


探しに来てみたはいいが、西へと傾いたその日と共に途方に暮れてしまったのは、
自分が予想に上げた姜維ではなく。


「一体私にどうしろと言うんだ…」


彼女が予想に上げた通り、気まずそうに自分だけを起こした趙雲だった。



トップの投票型アンケートのコメントで2番目にリクの多かった先生です。
いや、ウチなんぞのサイトに諸葛亮先生を求めて来て下さっている人が、
予想以上に多くて驚きました。
ので、前々からずっと温めていたネタなんかを書いてみたり。

アンケートに協力して下さった方々、コメントを付けて下さった方々、
本当にありがとうございました!