「雨…」


ぽつり、ぽつりと。
まるで仄暗い空から零れ落ちるように降り出した雨。
思わず手を伸ばす。
ひやりとした感覚が掌を優しく打った。


「雨が好きなのか?」
「どう、かな…」


すると、伸ばしたその手を遮ることなく背中からやんわりと抱きしめられる。
首筋に趙雲の長めの前髪が、唇が直に触れた。
くすぐったい。


「雨自体はそれほど好きじゃない…でも"雨の音だけ"は好き"だった"」


部分的な、またどこか限定的な含みを持った物言いに、趙雲は不思議そうに顔を上げて。
それに合わせて、後ろから抱き寄せられたまま首だけを軽く捻って相手と視線を絡ませる。
ついでに回された腕の、その先の大きな手にも雨に濡れたままの自分の指を絡めれば、
趙雲は拒みもせずにその長い指先で、絡み具合を一層深めてくれた。

温かい。
二人で淡く、微笑う。


「私が元居た所はね、酷く空が汚れた所だったから」
「『空が汚れた』…?」
「そう…こっちの人間には少し判り辛いかもしれないけど…でも、とにかく汚れてるの。
 だからそこで降る、灰色の空から落ちてくる雨はどうしたって好きになれなかった」


呼吸をするだけでも身体に害を及ぼす程に毒を含んだ空気。
まるで薄灰色のフィルター越しの蒼を広げる空。
こうして、この自然から生み出されるものだけに構成された世界に、
来た今だからこそ思うことだけれど、
良くもまぁ、あんな環境で生きていたものだ。


「私が元居た所で降る雨は、腐った空の臭いがして嫌いだった。
 肌に触れる雨雫に、細胞の一つ一つが浸食されていく感じがして…」


物質を溶かす、昔理科の実験の度に良くお目に掛かった酸を微弱にも含んだ雨は、
どうしたって肌を焼く印象を拭えず。
圧しかかるような濃灰色の雲の、その重さに耐えかねて落ちてくるような雨水は、
とてもじゃないけど天からの恵みと捉えるには醜過ぎた。


「一つ一つの雨筋が細い針のようで。
 必要以上に冷たくて、突き刺さるようで…痛みすらあるようだったから」


そして無闇やたらに降り注いでくる、叩き付けるような雨は、
ぶ厚い壁となって外界を遮断し、自分と世界を隔てさえして。
それはまるで「お前は結局独りきり」なのだと、そう嘲笑うかのようで。


「───


抱きしめられていた腕が僅かに緩む。
口には出さないけれどそれは『こっちを向いてごらん』と。
つまりはそういうことで。
付き合ってみると判る、意外と必要以上に言葉を発することをあまり好まないらしい彼の、
その"らしい"態度に。
それをこうして無条件に甘受できる自分の存在に、酷く満たされて思わず表情が緩む。

でも、そう簡単に振り向いてはあげない。


…?」
「趙雲は雨、好き?」
「好きかと聞かれると…嫌いではないな」
「そう」


そんな聞きようによっては曖昧に濁すとも取れる言い回しも、実際にはそんなことはなくて。
ただ本当にそう思ってるからこそ趙雲は在りのままを正直に、正確に口にする。
自分が生まれて初めて出会った、信じられないぐらいにどこまでも誠実な人間。


「私もこっちの雨は好きかな」
「…何故?」
「気になる?」


そんな楽し気な自分の表情と声色に、少しばかり躊躇を様子を見せた趙雲だったけれど、
次の瞬間にはすぐに「ああ」と、真っ直ぐな視線を向けてきた。
自分もその視線を真正面からしっかりと受け止める。


「こっちの雨は…音も雫も優しいから」


この世界の雨はとても綺麗で。
澄んだ空から零れてくるそれは、見様によっては宝石のようですらあって。


「それに…」


この身体を満たすように、この肌に染み入るように優しく降り注ぐ雨は。





「優しく包み込んでくれるようなこっちの雨は、趙雲を思い起こさせるから…好き」





好きなのだと。
そう、思う。





「それは…どうしたものか」
「何が?」
「弱ったな…そんな風に言われてしまったら、
 私はこの胸の不満を…不快感を一体何に当たり散らしたら良い?」
「……もしかして、雨に妬いてたの?」
「どうだろう…妬いていたというか、腹を立ててたというか何というか…」


そんな彼曰くの嫉妬の有無を確かめたくて、その瞳の奥を深く覗き込めば趙雲は苦く笑って。
自分の視線を避けるかのようにこの頬を撫でるとふわりと、瞼にその唇を落とした。
落とされた私といえばただ静かにそれを受け止めて。

自分で言っておいてなんだけど、趙雲は本当に雨のよう。


「…大分身体も冷えてきたな」
「まぁこの格好じゃね……って、何か誤魔化してない?」


ただし、随分とぬくもりを持った雨だけれど。


「もう一度寝直すか…」
「誤魔化してるし。
 しかも『寝る』、ね……『睡眠』って意味よね、それ?」
「…当たり前だろう。
 まったく…私を何だと思っているんだ?」
「そうよね。趙雲は先生と違うものね」
「諸葛亮殿と一緒にしないでくれ…、──!?
 な、、それは一体どういう…」
「ちゃんと起きる時には一緒に起こしてよね」
っ」


だから、そのぬくもりに身も意識も預けて。
その心地良さにわざと溺れて。
ゆったりと瞼を閉じた。










雨音に遮られて、互いの息づかいのみに満たされた静かな世界。


「私が雨だと言うのなら…」


サ──ッと耳を打つ、涼やかな雨音に混じって。


「雨が空を大地へと繋ぐように」


そんな優しい微睡みの中で聞いたのは。





「私も貴女をこの地へと…私の傍にと繋ぎとめることができるのだろうか」





そんな祈るような、穏やかな趙雲の声。



『甘雨』とは『翠雨』の一種で、『青葉を濡らし、草木を潤す雨』のこと。

我らがコーエーの依怙贔屓キャラ三国無双のヒーロー、趙雲です。(笑)
そういえばまだ書いてなかったなぁ、と。
ちなみに、『そうよね。趙雲は先生と違うものね』というのは、弟子であるが故に、
先生の人柄と、先生と月英のイチャつきっぷりを知っての発言です。
ので、別段趙雲が心配しているような事実はありません。(笑)