彼女は一切その口から語ろうとはしない

事件の真相も
犯人の正体も


自身の過去も、何一つ


My life as your air.


「智に働けば角が立つ」
「?」
「情に棹させば流される」
ちゃん?」
「意地を通せば窮屈だ」
「………」
「兎角に人の世は住みにくい」
「……どうしたんや、急に?」


今こうして突然彼女が口にし出したのは、知る人ぞ知るあの有名な小説の冒頭。
自分なんぞを引き合いに出すなど、烏滸がましいことこの上ないのであるが、
目の前に立たされれば風に混じる砂塵に等しいか、またはそれ以下である、
かの高名な国民的作家、漱石先生の代表作の一つ。


「草枕、なんて」


雑誌『ホトトギス』に、これも夏目漱石の代名詞とも言える程に有名な
『我輩は猫である』を発表した翌年に書かれた作品である。


「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる」
「…いや、だから」
「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る」


私の質問など全く気に止める素振りもなく、そのまま草枕冒頭を音読し続ける彼女。
勿論その手には、当該書物を持って……などいない。


「『人の世』を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
 やはり三軒両隣りにちらちらする唯の人である。
 唯の人が作った『人の世』が住みいくいからとて、越す国はあるまい。
 あれば『人でなし』の国へ行くばかりだ。
 『人でなし』の国は『人の世』よりも猶住みにくかろう」
「………。」


なおも澱みなく続くその音読の正確さに、
(私自身草枕を暗記しているわけではないので、正確かどうかは断言できないのだが、
 おそらく彼女の事だ、一語一句として間違ってはいないのだろうと)
私は半ば軽く口を開け放った、いわゆる開いた口が塞がらないという状態だった。


「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、
 寛ぎて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
 ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る」


そこまで言い終わると、先程から表情一つ変えずに、
本棚へと向いていたその視線をゆったりと私の方へとずらし、


「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
 ───…のだそうですよ、有栖川先生?」


と、やや挑発的な微笑をひいた面持ちで、そう私へと問いかてきた。


「…もしかせえへんでも、全文暗記しとる、とか?」
「まさか。いくら何でもそこまで暇じゃありませんよ、大学生も」


何となく覚えてるのは前半部分とあとは最後の十段目だけですよ、と。
いけしゃしゃあと言い放ち、私が仕事に勤しむその机の横まで歩いてくる。


「それで、小説を書くという一芸術の士であると思われる有栖川先生の御意見は?」
「……何や、火村に似てきよったな、ちゃん」
「失礼ですね」


失礼なんはそう言う君やろ?と、一応反撃には出てみたが、
私が失礼と言ったのは『火村先生に対して』という意味です、
と、目的語を省略した短い文章を利用し、意味を摺り替えるという、
日本語ならではの巧妙な手口で呆気無くいなされてしまった。


「それに、火村先生に似てきたなんて……恐悦至極、光栄の至り、ですよ」
「またそんな心にも無いことを嘯いて…」


そんな、どこかの英都大学社会学部助教授が、
これまたどこかでくしゃみを連発しそうな会話を一通り交わし終えると、
大幅に横道に逸れた話の軌道は僅かに修正された。


「まあ、これは私の人生の至言ではあると思っていますけど」
「その年で人生の至言に草枕冒頭とは……随分と高尚な事で」


そう言って年甲斐にもなく、拗ねた子供のような声を上げれば、
今度はくすくすと軽く声をたてて笑いながら、自分の傍から離れ、
先程まで座っていた私のベットへと戻り腰を下ろす。
そんな彼女の一連の行動にふと、


(───ああ、もしかしたら)


と、ある予感が湧く。


「何か、あったんか?」
「…別に、何にもありませよ」





彼女を彼女以外のものに例えるなら、
それは『雲』だと思う。





遠く離れた地上からすれば、紺碧の空にあんなにもくっきりと浮かんで見えるのに、

同じ高さで触れようと手を伸ばせば、形もなく掴むこともできない。





そんな白い雲のように
決して本心を見せようとはしない彼女。





「じゃあ、これから何かあるんか?」
「───…」





それでも。
掴むことはできなくとも。

そこに在ることは、絶対不変の真実なのだから。





「また、捜査協力を頼まれた、とか?」


彼女は元探偵だったという。
何の理由があって探偵という生き方を捨てたのか、やはり判らない。
しかしその探偵としての能力は、他の追随を許さない程のもので、
職を辞した後も、個人的に繋がりを持つ人間の要請についてのみ協力している。

だが、その協力の姿勢は一変して特異で。
真相に近付けるための助言はするが、
事件の真相については自らの口からは一切語らないのである。
───たとえ最初から真相を、犯人を看破していようとも。



ただ、いつだって。
彼女が推理することを望んでいないことは確かで。
そうした時の彼女の表情は、僅かにだが歪んで。


『表情に出してしまう程』に『無理をして』いるのだ。








「───…珍しく、あり得ないくらい冴えてますね、有栖川先生」
「……それはどうも」


彼女に皮肉で応戦しようとしても、
こちらに勝てる要素など微塵もないことは、
先程の応酬以外からも判っているため、そこは軽く受け流す。


「あのな。俺は君や火村程に、人を見抜く力はない。
 そんな君らのような捻くれた人間に上手く本心を隠されてしまったら、
 絶対に気付けへん。気付きようがない」


私の言葉に、私の今までにない(であろう)真剣な面持ちに、
視線を外すこともなくじっと耳を傾ける彼女。


「無理はするなよ…言うても、してしまうんやろな、君は」
「……………」
「だから、無理するな、とは言わん」
「……………」





「ただ、無理するときは前もって俺に一言、
 一言でええから『無理します』なり何なり言うてくれへんか?」





「───…」
「な?」


そう言いきっても、いっこうに真剣な面持ちを維持した(つもりの)まま、
視線を外そうとはしない私をどう思ったのか。
彼女は少しばかり意外そうな、驚いたような表情で固まって。
それでもその私の視線から、君が返事をするまでこちらは一切動かないぞ、
との意志を読み取ったのか、彼女は漸く口を開く。


「……普通、『無理する前に俺を頼れよ』とか言いません?」
「生憎、俺は自分の力量については存分に弁えてとるつもりやからな」
「開き直りですよ、それ」
「……………」
「……まあ、有栖川先生らしくはありますけど」


そう言って、静かにベットから腰を上げる彼女。
自分のこの精一杯の思いは受け入れられず、空振りに終わったのかと、
やはり自分では駄目なのかと、
俯き、人知れずため息をひとつ吐けば。


「……それじゃあ、とりあえず今から『無理をして』来ますので」
「!」
「終わったら、また本を借りにここへ戻って来ても……いいですか?」
「───勿論」










俺がどんなに足掻いたところで、
火村のようになれる訳でもなし。

俺は俺でしかないんやから、

俺は俺にできることを、自分なりに精一杯やればええんやないかと、



そう、思った。










「じゃあ、私はこれで……」


彼女が兎角住みにくいと言う人の世に、
望まずとも生きていかねばならないのなら、

認められずとも小説家という、一応の一芸術の士として





君に束の間の休息を
ひとときの安らぎを





「ああ、『行ってらっしゃい』」
「! ───…『行ってきます』」









今度は。
彼女が帰ってきたら。


『おかえり』、と。


微笑って出迎えよう。



有栖川有栖ドリーム第一段は火村であろう予想を大きく裏切ってアリス(笑)
いえ、ただ私がアリス好きなだけなんですが。
そして、さりげなく火村にヤキモキしていたアリス。
ええ完全に私の趣味ですが何か?(開き直るな)