届け、君に


「先生」


時は夕刻、場所は有栖川邸。


「何だ?」
「何?」


返事の出だしを被らせ、声主へと頭(こうべ)を巡らせたのは助教授と小説家の二人だった。


「「「………。」」」


奇妙なユニゾンを耳にして、控えめにも一瞬不思議そうに停止した彼女だったが、
すぐ次の瞬間にはきちんと原因を理解したらしく、ゆったりと謝罪した。


「…ああ、すみません。有栖川先生」
「俺か」
「それ以上やると、"焦げ目"でなしに"焦げ"が付きますよ」
「わっ!?」


『先生』。
彼女にそうして呼んで貰えるのは自分が知る限り二人だけ。
自分と火村だ。
そしてどうやら今回の『先生』は自分であったらしい。
何やかんやと細々とした紆余曲折を経て3人分の夕食を作ることになってしまった彼女に、
実に冷静に、任されていたフライパンの窮状を指摘された。


「おいおい頼むぜ、アリス」
「ならお前も手伝えよ!」
「手伝ってるじゃねぇか」
「そうして六時のニュース見ながら缶ビールを呷ってるのはどこのどいつや」
「こうして見事に皿やらを並べてやったろ」
「食材に触れ、食材に」


ああ言えばこう言う。
まさにそれ。
火村との皮肉の応酬はそれこそ日常茶飯事ではあるが、
それすらのレベルにも満たない、まるで子供同士の屁理屈の捏ね合いだ、これでは。

と。


「…焦げてますね」
「!!」
「貸して下さい」


フラインパン上の手羽先は、更なる窮状に追い込まれていた。


「…面目無い」


決して奪うではない、やんわりとした動作で取り上げられたフライパン。
それをプロの料理人顔負けの手付きでもって返すと、そこには確かに、
狐色の焦げ目というよりは焦げと、そう称すべき黒い焼き色が付いていた。
情けなさにしゅんと音を立てて肩を落とせば、
「これぐらいなら大丈夫ですよ」と心ばかりのフォローが返ってくる。
そんな手厚い気遣いに一瞬浮上しかけた心持ちだったが、
それも皮肉屋の友人の手痛いからかいによって叩き落とされることとなった。
いやむしろ、跳ね上げられたというべきか。


「浮かれてるからだろ」
「…この手一杯の俺の、どこが浮かれてるって言うんや」
と並んで台所に立って、『新婚夫婦』みたいだとか何とか、
 お得意の不貞な妄想癖に浸っていたんじゃないのか?」
「な…っ、火村!」
「まったく、俺は癌で死ぬ予定は無いぜ」
「心配せずとも亜硝酸塩もアミン類も含まれてませんよ、この焦げには」


ツッコミ、なのだろうか。
ツッコミ、なのだろう。
毎度の事ながら、何とも高度で学術的な間の手だと思う。


「───できましたよ」
「アリスの小言に耐え忍んで待った甲斐があったってもんだ」
「…俺も、お前の毒舌を乗り越えて手伝った甲斐があったってもんや」


出来上がってみれば、本日のメニューは自分のリクエスト通りにも、
完全にアジアンテイストとなっていた。
まず前菜にヤム・カイ・トム、スープにゲーンジューツ・タオフー・ムーサップ。
メインは手羽先のチリソースにナシゴレンと、
ボリュームも中年の男やもめ二人には十分過ぎるものだった。
ついでに酒のつまみにと切り干し大根のナムルまでついているのだから、
気が利いてるとしか言い様が無い。


「「いただきます」」


ぱんっと手を合わせて、きちんと食事前の挨拶を。
さてどれから手を付けるべきかと皿に目線を巡らせれば、
宙で停止した火村の箸が視界に入る。
何かと思って友人の顔を見れば、火村の視線はどうやら彼女に注がれているらしく。
自分もその視線を追って彼女の方へと顔を向ければ、
そこには箸を両手に、ほんの少しだけ考え込んでいるような彼女。
それは戸惑い、躊躇いにも似た気配をたたえていた。


「………」
「どうした?」


火村が声を掛ける。
視線を上げた彼女は既に普段と何ら変わらぬ様子で。
けれどやはり、まとうその雰囲気には何処か僅かな幼さを覚えて。


「いえ…」
「何か足りんもんでも?」
「いいえ。ただ…その、『いただきます』と言って食事をすることなんて、
 あまり機会の無いことだったので…少し新鮮に思えて」
「そうなん?」
「ええ」
「言い聞き慣れない言葉に戸惑ったと、そういうことか」
「はい」


火村と顔を突き合わせる。
どうやら考えたことは同じらしい。





「「つまり、『いただきます』と言うのが照れ臭かったと?」」





言えば、彼女は本当に控えめながらもきょとんと目を見張った。





「…そう、なんでしょうか」
「さあな」
「さてね」
「何ですか、その妙なシンクロは」


方や面白がって、方や微笑ましく思って笑みを浮かべるのを見とがめ、
彼女は僅かに眉間へと綺麗に皺を寄せる。
それを見て、更にそれぞれの笑みを深める火村と自分。


「判らないならな」
「そや、確かめてごらん」


そして。
グラスに手を掛けたまま口元へとは運ばず、箸を持ったまま食事には手を付けず。
態度でもって穏やかに促せば聡明な彼女は。





「───いただき、ます」





珍しくも辿々しく、そう言葉を紡いだ。



ミステリヒロインの可愛い面なんてこれっきりかもしれん…。

10万hits記念企画の再録。
リクエストがあったんでこうして再びupする運びとなりました。
リクして下さった方、ありがとうございました!