最初に目に入ったのは鮮やかな赤。
飛び散って乾いた紅に、滴る朱。
人の血液。

そしてその赤の中に散らばる肉塊と肉片。

いつまでか、人であったそれ。
いつの間にか、人でなくなったそれ。


リアルの殺人現場。
見るに耐えない惨殺死体。


「───うっ、…ぁ、……ぐ」


その視界の鮮やかなまでの生々しさに。
危うく胃の内容物を戻しそうになって、とっさに口元を押さえ付けた。
喉には焼ける様な感覚が走る。


「!?」


と、突如赤から黒へと翻った世界。
その暗転に思わずびくりと身体が跳ねる。

訳が、判らない。


「目を閉じてて下さい、有栖川先生」


彼女の声。
それを聞いてやっと、自分が置かれている状況を理解する。
自分の目の前にあるであろうそれは、誰かしらに殺された人間の身体。
そして急に世界が闇へと反転した理由。

彼女の手が、自分の視界を遮っているのだ。


「大丈夫ですか?」


また彼女の声。
しかしその音色は発している言葉や内容に反して、私を気づかうでも労るでもなく。
そして、後に続く声もやはり機械の如く単調で。


「……もしもし、火村先生ですか?
 です。…ええ、殺人事件です。場所は───」


酷く冴え冴えとして。
どこまでも冷めきっていて。
それはまるで反響する金属音のようだと、

そう、思った。


So many moments we were looking for this answer.


それ以降の記憶は酷く朧げで。
パトカーやサイレンの音や色はうっすらと残っているのだが、
しっかりと意識を持って気付けばそこは見知らぬ部屋で、
こうしてパイプ椅子に腰掛け、火村の到着を待っているらしかった。


「アリス」
「……火村か」


部屋唯一の扉が開くと、黒いコートを羽織った友人が入って来た。
待ち人来たりて、火村英生だ。


「大丈夫か?」
「あぁ…、何とか、落ち着いた」
「無理することはない。さすがの俺でもかなり度肝を抜かれたからな、アレには」


「担当の刑事や警察も目を背けてるからな」と付け加え、近付いてくる火村。
そんなにも憔悴しているのだろうか、自分は。


「よもや、お前に励まされるとはな」


自分では苦笑しているつもりなのだが、きっとこの顔は強張っているだけなのだろう。
火村は特に何も言いよこしてはこなかった。


「…ちゃんは?」
「今、現場検証も兼ねて刑事や鑑識と話してる。第一発見者だからな、一応」
「そう、か…」


そうなのだ。
自分も彼女と同じく第一発見者なのだ。
そう意識すると、現実に事件が起こっていることを今更ながら実感する。
それと同時に肌を伝わる悪寒。
さあっと脳裏を過る先程の赤い光景。

彼女の様子。


「なあ、火村」
「何だ?」
「やっぱり…慣れとるんかな」
「は?」


気付けば煙草に火を付けようとしている火村。
その手にはきっちりと愛用の黒い手袋が嵌められている。

この男は捜査を抜けてまでここへ、自分の元へ来たというのか。


「…今日はどうしてか随分と献身的なんやな」
「まあな」


あっさりと肯定してのける火村の真意を計りきれずにいると、
「それで何が何に慣れてるっていうんだ?
 小説家ならもう少し一般人に理解可能な範囲の形の疑問系を口にしろよ」
と、後ろから良く研いだ毒舌で背中をつっつくかのように先を促された。


ちゃん、やっぱりこういうんには慣れとるんやろうな…と思って」
「………」
「さっきだって、全然取り乱さんで、
 俺みたいに惚けるでもなしに、淡々とすぐにお前や警察に連絡とって…」


まるでカメラのレンズ越しの視線。
録音しておいたテープが再生されているかのような口調。

表情一つ変えず。
声色一つ変えず。

限りなく熱の無い機械のように。


「滅茶苦茶冷たい声、しとった…っ」





それが、何故か無性に悲しくなった。





「…まぁ、確かにの事だ。あんなもの見慣れているんだろうな。
 というよりはむしろ、見飽きてる、と言った方が正しいか」
「あぁ」
「でもな、アリス」


そう自分の名を呼ぶと、まだ吸いかけの煙草を携帯灰皿で揉み消して。


「何や」
「だからといって、は何も感じていないって訳じゃないんだぜ?」
「……?」


この友人にはあまり見られない穏やかな調子で、そう語り始めた。


「アイツな」
「アイツって…ちゃんの事か?」


「この場合他に誰がいるんだよ」と、軽く私の頭を小突く火村。


「なるたけ早く来てくれ、って言ってだぜ」
「…そうか」


それは、彼女も恐怖を感じていなかった訳ではなかった、
だからこそ『早く来て』と自分に言ったのだ、とでも言いたいのだろうか。
火村にしては、あまりにも論理性の欠片も感じられない証明だ。
そんな思考が顔に出たのか、それをタイミング良く読み取ったらしい火村は、
「馬鹿野郎、人の話は最後まで有り難く聞きやがれ」と、
今度は脛を、それなりの力を込めて蹴られた。


「っつ───、だったら何だって言うんや、一体…!」
「本当に暢気な先生だな。絶望的な暢気さ…いや天才的な鈍さか」
「火村!!」
「うるせえな、俺は馬に蹴られて死ぬ気なんざさらさらないんだよ」


自分が上げたヒステリックな声に顔を顰め、よく意味の掴めない事を言う火村。
それでも、ひとつため息を付きながらもまた根気良くその言の続きを紡ぎだした。


「『できるだけ早く来て、有栖川先生の傍に付いていてあげて下さい』」
「な…っ」
「だから早とちるなよ。
 …『私が傍に居ても、更に怯えさせるだけでしょうから』だとさ」
「!」





「『こんな私を見たら、きっと有栖川先生は恐がる…気味悪く思うでしょうから。
  だから火村先生、お願いします』ってな」





立て続けの予想外の言葉に思わず息が詰まる。
そして、やはり今更ながらに気付く。





そうだ。
警察来るまでの間、自分の視界を遮ってくれていたのは誰の手だ?



あの赤い現実から自分を護ってくれていたのは誰だった?






「ほら、行くぞ。俺はお前を送って行くようから頼まれてるんだからな」


「お前の事情聴取は明日にしてくれるよう、俺とアイツから頼んでおいた」と、
付け加えつつ、器用に指先でくるくると車のキーを回す火村。
そのチャリチャリという音に、大分自分が現実に戻って来ている事を実感する。


「火村…、悪いが先に帰っててくれ」
「阿呆か。お前を送り届けず済むなら、捜査に戻るに決まってんだろうが」


───それはそうだ。


「待つのか?」
「ああ」
「ふうん。いい歳こいた小説家が女子大生にホの字とはな…、さすがは世紀末」
「放っとけ」
「は! 調子が戻ってきたみてぇじゃねぇか。
 まあ、今日のところは特別にこれくらいで勘弁しといてやるよ」


そう言ってくるりと背を向け、
そのまま手をひらひらと振り扉へ歩みを進める皮肉の減らない友人。
そのノブに手を掛けると、首と上半身だけをひょいっとこちらへと見せて。
にたり、と意地の悪い微笑を浮かべて。


「これを機に、恋愛小説にも触手を伸ばしてみたらどうだ?」
「───っ、さっさと捜査に戻れよ!!」
「へいへい」


くくっ、と喉を鳴らして出て行った。










残された私はと言えば。
とりあえず彼女の鞄がこの部屋に置いてあるのだからと、
いかにも単純な理由で、やはり同じ部屋で時を浪費していた。


───そういえば、この部屋まで自分を連れて来てくれたのも彼女だったのか。


自分がどうやってこの部屋まで来たのかを思い出し、また溜め息を一つ吐く。
どうやら徐々にだが、思考がクリアになってきているのは確からしい。

そんな風に朧げな記憶を辿っているうちに、どうやら相当な時間を費やせたようだった。
と、余裕が無かったせいか火村の時には全く気にも止まならなかったのだが、
ギイっと錆びた音を立てて部屋の扉が動く。
勿論、中へ入って来たのは他ならぬ彼女、


「───…そういう事ですか」


開口一番そう漏らす彼女。
彼女がここへ来たのは十中八九、火村の差し向けなのだろうが、
しかしどうやら、自分が帰らずに待っているという事だけは告げられなかったようだ。


───楽しんでやがるな、アイツ。


「…返事がどうも曖昧だとは思っていたんですが。
 しかも、さり気なく口元を隠して『用事があるから先に一人で帰る』なんて言うし…」


───やっぱり。


「捜査の方は一段落ついたんか?」
「ええ。犯人も判りましたし、物証もどこにあるのかをさっき指示したので。
 そろそろ発見されるでしょう」
「……もう解決した、って事か?」
「はい」


私自身、彼女の推理に立ち会ったことはない。
しかし火村に言わせると、『鮮やかもここに極まれり』であるらしい彼女の推理。
…それにしたって速過ぎる気がしないでもないが。


「現実とは遅かれ早かれ最終的には情報と推論で導き出されるものですから」


「幸運なことに情報は大量に残っていたので」と何でもない風に言う。
本当に何でもない風に、ごく当たり前のように自然に。
でも、火村の言を借りるならば。


「さっきはありがとな」
「………」


それはただ『そういう風に見えるだけ』であって、
実際には、ちゃんと他にそこに存在するものがあって。

だから。


「ありがとう」


と、そう伝えれば。


「…どう、いたしまして」


と、答える彼女。
その表情が僅かに熱を帯びてるように見えるのは、
ただの私のおごり、慢心だろうか。


「でも、せやったら」
「…?」


そうして近寄って、握った彼女の手は暖かく。
とくんとくん、と脈打って。


「どうせやったら、小憎たらしい火村なんかよりも、
 ずっと可愛気のあるちゃんの方に一緒に居て貰いたかったなぁ」
「───…火村先生と比較された可愛気じゃ、お世辞も効果は半減以下ですね」
「それもそうや」


微笑って。
もう一度、それを確かめるようにぎゅっと握れば。





「有栖川先生って、意外とタフなんですね」





と、彼女は幾分幼さの残る笑顔で微笑った。



昔の人は素晴らしい言葉を残しました。
『人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ』…大好きです、この言葉(笑)
本当はもっと色々とあったのですが、これ以上は収集が付かなくなると踏み、切り捨てました。