こんな感情の揺らぎ。
これが最後ならいいのに。
Don't try to live so wise.
「」
呼ばれた名が自分のそれだと気付くのに数瞬掛かった。
「おい」
呼んだ相手が自分の眼前の男だと気付くのに更に数瞬掛かった。
「…どうした?」
呼び掛けられている自分が相当惚けていたことに気付いたのはそのまた数瞬後だった。
「───…何でしょう?」
「『何でしょう?』じゃねぇだろうが」
出たのは、自分でも意外なくらいに酷く色味の無い声。
そんな私の様子に、振り返った助教授は怪訝そうに顔を覗き込んできた。
「なんだ、真面目に俺に見惚れてたのか?」
「…そうですね。そんなところにしておいて下さい」
「ふん、そういうことにしといてやるよ」
「何なんですか。言い出したのは御自分でしょうに」
髪を無造作になびかせる春風。
それに散り舞い上げられる薄桃色のはなびら達。
辺り一面を埋め尽くす花、花、花。
満開の桜。
「文字通りの桜吹雪…綺麗ですね」
どちらかといえば艶ばかりを主張する感のある夜の桜もそれはそれで好きだが、
日の下で、爽やかな輝きを見せる昼の桜の方が好きだった。
太陽の光の中であって、さらに輝きを放つそれは見ていて涼やかな気分にさえなれる。
この花吹雪がまさに、それ。
「案外と素直な感想だな」
「…私を何だと思ってるんですか」
桜に霞み、輪郭のぼやけた世界で、
普段と変わらないシニカルな笑みを浮かべる相手を見やる。
そんな一つ一つの境界が曖昧な世界でも、
その表情だけは口元から目元まではっきり見てとれた。
「お前はお前だろ」
一点ばかりを見つめるあまり、全体像を見失っているのは。
もしかしなくとも、桜のせいだけじゃないのかもしれない。
「お前はお前だ。今までも、そしてこれからも」
舞い散る白に世界ごと浄化される意識。
「そう、かもしれませんね…」
酔いにも似た感覚。
「…?」
「先生はどうです?」
「何がだ?」
そして、清められる私はどうしたって明らかな穢物。
「先生の方こそどうなんです?」
目の前の臨床犯罪学者のこと思うばかりの欲塗れな存在。
「どう、と聞かれてもな。抽象的過ぎる」
火村英生。
愛煙家で愛猫家。
皮肉屋で毒舌家。
人間嫌いの女嫌い。
友人らしい友人といえば有栖川先生ぐらいのもので。
明け透けに心を晒すのは3匹の飼い猫達くらいのもので。
それでもこうして傍に寄せておこうとするのは自分だけ。
与えられる深い安堵。
それは私にとっての誇りであり、生きていく糧。
「今までもこれからも、先生は先生ですか?」
「今度はまた随分と哲学的な質問だな」
「敬愛してやまない"哲学者"がいるもので」
「…どこの誰だ、そいつは?」
「企業秘密です」
そんな甘やかな感情に。
自惚れても良いのならばここに居たいと。
許されるのならばこれからもと、そう願ってしまう。
「お前はどうなんだ?」
「…先生の言う通り、私は私でしかありませんよ。
付け加えるなら、ここしばらく自分でも判るくらいに私は変わっていません」
切実に、心を占めるこの想い。
「先生に出会ってから、今までのところ…」
そして、この自分にもあるらしい心というものが。
微熱を帯びて揺らぐのは、やはりこの人だけだから。
「"幸せ"とは何かと考えたとき、真っ先に思い浮かぶのは先生の姿なんですよ」
だから。
こんな感情の揺らぎ、これで最後ならいいのに、と。
「…これからも、そうであれば良いと思っています」
心からそう、願う。
「───そうか」
頬の輪郭をななぞる、低い体温。
しっかりとした男の指先。
「そうだな、それなら…」
視界一杯に映る男の唇。
瞼に触れる、熱っぽく柔らかな感触。
「望み通り…そんな感情の揺らぎ、俺で最後にしてやるよ」
捻くれ者の二人にしては素直な癒し合い。
『癒し合い』と『傷の舐め合い』っていうのは別物だと思うわけで。
相手の癒し優先か、自分の癒し優先かの違い。
相手のために自分の弱さを曝け出すことができるそれは、やはり癒しだと思うのです。