蕩尽に関する別考察 11








「皆様、ご歓談中に失礼致します」


店中に届き渡った男性の声。
発生源の方角を見遣れば、声の主は店のマスターだった。
そして困惑顔の店長の脇には溝口氏。
ポトラッチ議論に脱線しているうちに、
どうやら溝口氏は勘定を済ませてしまっていたらしい。

しかし、何だというのだろうか。
そう呟きつつも心中にはどこか、答えとも言える期待めいた予感はあった。


「こちらのお客様より、皆様全員のお食事代を持ちたい、というお申し出がございました」


ああ、やはり。
ほのかな予感は的中した。
けれど予想していたとはいえ、前例を知り得ていたとはいえ、
自分も含め、我らがEMCメンバーと有馬嬢はやはり呆気にとられた。
店内にはどういうことだ?というざわめきが起こる。
当然の反応だろう。


「勝手にお受けするわけには参りませんので、お伺い致します。
 不都合だ、という方はおいででしょうか?」


ぎょっとする。
江神さんが手を上げたのだ。


「貧乏学生には大変ありがたいお話ですが、どうして我々に奢って下さるんですか?
 理由も判らないままご馳走になるわけにはいきません」
「変人の気紛れや。わしのために払わせてんか」
「それでは気持ちが治まらないんです。本当の理由は何ですか?」
「参ったな…」


店内が二人の動向に釘付けになる。
勿論、我らがEMCも。
このままいくと、予期せずして蕩尽の謎は大解決だ。

溝口氏は欠けた前歯を覗かせて困ったように笑い、その口元を綻ばせた。


「つまらんことやわ。
 ギャンブルで大当たりしたんで、そのお裾分けやがな。
 それをせんと、ツキが落ちるんでな。
 せやから、わしを助けると思うて出させてぇな」


それは我々の仮説のどれにも当て嵌まるものではなかった。

溝口氏の答弁の後、店内からは次々と感謝の言葉、
要するに承諾の返事が溝口氏へと送られた。
江神さんはどうするのか。
こういうことに関して暗黙の了解として異論無く決定権を預けられるのは江神さんだ。
部長の出方を窺う。
すると。


「では、ご馳走になります」


そう言って、江神さんは僕らにお礼を言うように促した。
溝口氏へ向かって軽く頭を下げる。
予期しない展開だ。
そして何やら腑に落ちない結末でもある。


「おや、あんたはうちに買物に来てくれる人やね。
 ああ、そっちのお嬢さんも店で見かけたことがある。
 そこのべっぴんな姉さんも昨日来てくれはったな。また来てや。
 欲しい本があったら無料で進呈するさかい。特別サービスを実施中や」


上から順にモチさん、有馬嬢、の順だ。
前者二人は共に言葉を失っていた。
対しては、溝口氏の人の良い笑顔に無言で軽く頭を下げた。

というか僕には「行かない方がいい」なんて言っておきながら、
自分はちゃっかりと文誠堂に足を運んでいたのか。
いや、それとも行って何かの情報を掴んだからこその忠告か。
問い詰めようとして口を開こうとすれば、何度目か、信長さんの言葉に遮られる。
何やら最近この展開が多過ぎるような気がしてならないのだが。


「最後は素直に奢られましたね。
 江神さんなら、もっと食い下がって理由を尋ねるかと思うたのに」
「しつこく訊いてもギャンブラーの縁起担ぎで押し通されたやろう。
 それより、奢られてどんな気分や?」


溝口氏が出て行くなり、その椀飯振る舞いに関する推論が乱れ飛んで、
一気に騒がしくなった店内の声を背景に、信長さんは少し不満そうにそう言った。
江神さんはといえば煙草をくわえ直して僕らにそんなことを聞く。

奢られた気分。
何と言えばいいんだろう。
こう、漠然と釈然としない感じだ。


「正直なところ、金欠で助かったんですが…。
 何かすっきりしませんね。圧倒されたというほどでもないけど」
「有栖川君と同じで、もやもやした気分が残ります。
 私、二度目だから尚更なのかしら。
 ほかのお客さんは屈託なく喜んでますね。文化人類学、敗れたり?」
はどうや?」
「…ポトラッチにしては随分と可愛らしい贈与ですね」
「そらお前、感想やなしに考察やろ」


相変わらず気の無い返答を返すに、
信長さんが手首から上だけ横に振って突っ込みを入れた。
すると突然江神さんが、「しっ」と人さし指を唇にあて、
更にその指でそのまま後ろのテーブルを指し示す。
ついで右手を耳に添えて、聞け、なるジェスチャーを寄越した。
そこに座っていたのは三十代ぐらいの女性二人。
会話の端々から零れてくる単語から、何やら溝口氏について話しているらしい。


「家はほとんど資産価値はないにしても、土地だけで五千万は下らなかったはずよね」
「うん、でもね、その土地だって破格の安さで投げ売りしたそうなのよ」


事情通らしい女性二人の話を整理すると、溝口氏の最近の動向はこうだった。

溝口氏に最初に奢って貰ったのは不動産屋なのだそうだ。
五千万は下らない土地を数千万という値段でもって投げ売り同然に売り払ったという。
まるで人生の後始末でもつけようとしてるかのような溝口氏の行動だが、
とりあえず自殺やら何やらの気配は今のところ無いらしい。
また身体の方も至って健康で、ここ一年歯医者にもかかっていないとのこと。
そして、何と溝口氏は遊び知らずの堅物で、博打の類いが大嫌いな人物であるという。
ともすれば、近所い奢り回っている金の出所は、
本人曰くのギャンブルの大当たりではなく、家と土地の売却代金ということになる。
更に新情報として、溝口氏は無駄遣いばかりしているわけはないようだ。
話によると、どこかの基金に多額の募金をしたという。
その額は窓口の郵便局員が金額の書き間違いではないかと疑う程のものであったらしい。


「判らないわねぇ。捨て鉢な感じがするわ。
 お金というものに復讐してるみたい」
「お金が仇か。
 ──ところで、お隣とはまだ揉めてるんでしょ。あれは何が本当の原因なの?」


溝口氏と印旛死の衝突の原因は、聞くところによるとどうやら印旛氏に非があるようだった。
既にほぼまとまりかけていた溝口氏の娘さんの縁談を、
先方へと質の悪い噂、悪評を流すことによって印旛氏が台無しにしたというのだ。
それ以降娘さんは酷く傷付いて、男性と付き合おうともしなくなったらしい。


「酷いじゃない。印旛さんて人は、どうしてそんなことを?」
「溝口さんとは昔から反りが合わなかったらしいけれど、
 それだけじゃなくて、性格的なものらしいわ。
 夫婦揃って、あそこは変だってご近所の評判でね。
 他人のささやかな幸せが大嫌いで、そんなものを見ると無茶苦茶にしたくなるみたい」
「異常者じゃない」
「大きな声では言えないけれど、アブノーマルだと思うわ」


以前、近所で仲睦まじい夫婦宅限定に匿名の手紙が出回って騒動があったそうだ。
その手紙の内容はといえば、『ご主人には愛人がいる』だの『奥さんは浮気しているだの』、
どうにもいやらしい中傷であったらしい。
結局犯人は判らず終いだったようだが、手紙の筆跡が印旛氏のそれに酷似していたという。
あの夫婦ならやりかねない。
それがご近所の認識のようだ。


「おまけにケチなのよね」
「もしかして、溝口さんはそんなケチ臭い印旛さんへの当てつけにお金ばら撒いてるのかも」
「まさか。それなら相手が見てる前でばら撒くでしょ。ピント外れよ」
「とすると、やっぱり心の病かしら」


新情報ばかりだが、とにかく溝口氏の散財は、
ご近所でもちょっとしたミステリーに発展しつつあるらしい。


「失礼ですが、ちょっとお訊きしていいですか?」


江神さんが振り返って女性二人に話掛ける。
すると二人は反射的に「はい」と応えてしまったようだったが、
その後に続く探偵の質問にも気を悪くすることもなく丁寧に答えてくれた。

江神さんの最初の質問は印旛氏について。
我々に最も欠如してる情報だ。
何せ今のところのホームズ的考察ぐらいしかない。

印旛氏はそこそこに腕の良い染織家であったらしい。
今は体を壊して隠居しているようだが、家には昔の作品が所狭しと飾られているとか。
つい先程訪れた木造二階屋に夫婦二人きりで暮らしているが、
週末には醍醐に嫁いだ娘夫婦の元へと孫に会いにいくという生活を送っているようだ。

次いで溝口氏についての情報の詳細確認。
自宅と土地を売り払ったのは三か月ほど前とのこと。
その頃から、というかそれから件の奇行が始まったという。
中には奢り回ったり、募金したりといった他人のため以外の出費もあったようだが、
加賀かどこかの温泉地を豪遊してきたらしく、
印旛氏以外のご近所全宅にお土産を配ったとのこと。


「他人のためばかりに使ってるんでもないわけよ」


こうするともう無秩序過ぎて仮説も何もあったもんじゃないな。
正直、心中そんな白旗を上げた。





そうしてゆったりと食事を終え、店を出たのは気付けば九時半近く。
揃って令嬢を彼女の下宿前までお送りした。


「今日はありがとうございました。
 とても楽しかった。また誘って下さい」


ぺこりと頭を下げて、男子禁制のアパートの玄関に消えていった後ろ姿を見送りながら、
「ええ娘やないか」とモチさんが呟く。
おそらくあのクイーンでの切り返しが利いたのだろう。


「同じクラスにあれだけの人材がおったのに、
 それを今まで放置してとは。お前の目は節穴か」
「そんなこと言われても…。
 私はミステリファンですって、顔に書いて歩いてる人間はいませんからね」
「もうええやないか、信長。
 幽霊会員の新歓コンパのつもりやったけれど、多分、あの幽霊には足が生えるやろう」


僕にも少なからずそんな予感があった。
彼女は次の機会にも顔出してくれるだろう。
それも次からはEMCの一員として。


「今日はお疲れ」


バイクで走り去った信長さんについで、残り4人もぽつぽつと歩き出す。
僕はこのまま誘われたモチさんの下宿へと、
ブックハンティングの成果を拝見しがてら泊まりに行くことにした。
江神さんは途中までを送りつつ、西陣の下宿へと帰るようだ。
大学近くにあるモチさんの下宿まで約30分。
江神さんのねぐらまで、歩いて1時間もかからないだろう。


「お疲れ様でした。じゃあね、アリス」
「ああ、お疲れ」


そんなどうでもいいことをつらつらと考えていた僕はすっかり失念していたのだ。
が昨日、文誠堂を訪れていたという事実を。
どんな情報を得たのかを問い詰めることを。


気付かなかった。
気付けなかった。

が、とある選択を迫られていたことを。



書いてみればこれがサクサクと書けますねぇ。
本当はもっとほろ酔いマリアと白面ヒロインを絡ませたかったんですけど、
そうするとそれだけ1話になってしまいそうだったので。(笑)
とにかくいいかげん完結させねば…!