蕩尽に関する別考察 16








有馬嬢を迎えに行って、戻って来た空きビルの奥部屋は、
人も物も、出て行った時と何一つ位置が変わっていなかった。


「お帰り」
「ただいま」


言って、部屋の隅に座り込んでいたが腰を上げる。
そしてふとしてじっとこちらを見つめると突然、
「女の子の荷物を率先して持ってあげるとかそういう男気は無いの?」と、
呆れたように言い放った。
言われてはっとする。
隣の有馬嬢の手には軽そうには見えないビニール袋。
中身は今夜のためにと調達してきた飲み物とお菓子だと言っていた。
どうして今の今まで気付かなかったのか。
思ってる以上に、この一連の状況に興奮しているのかもしれない。
慌てて令嬢に詫びようとすれば、いつの間にやら彼女の前まで移動してきていたが、
「気の利かない迎えで申し訳無い限りね」と荷物を受け取っていた。
手渡した有馬嬢は「それでこそ有栖川君って気もするけどね」と、くすくすと笑った。


「早速で悪いが、替わってくれ」
「私が」


一服するのだろう。
ズボンの後ろポケットをまさぐりながらソファから腰を上げた江神さんに、
有馬嬢がすばやく志願の意を示した。


「男気云々というよりも、むしろ瞬発力の問題なのかしら…」
「…放っとけよ」


静かに考察まがいの憎まれ口を叩く親友の手から、多少無造作に荷物を奪ってやる。
すると振り返った令嬢から、びしりと人さし指を突き付けられ、
挙げ句の果てには「有栖川君、器が小さい!」などと手痛い指摘まで受けてしまった。
見遣れば、江神さんは思いっきり俯いて、
はあらぬ方向を向き、利き手で口元を覆い隠してと、
両者共に無言でもって肩を上下に振るわせていた。
そしてとどめと言わんばかりに「ナイスコンビネーションよね!」と、
に向かって親指を立てた握り拳を突き出した有馬嬢に、
最後はたまらず部長が吹き出す始末。
「手強いタッグの登場やな」と腹筋を引き攣らせ、壁に背を預け床へと沈み込んだ。

もう、どうにでもしてくれ。
要らぬところで存分に体力を消耗してしまった。





そんなこんなで。


「30分毎に交代しよう」


部長の提案で、見張り番は30分毎に交代することになった。
見張りに就いていない他三人は、雑談に耽ったり、差し入れに口を付けたり、
経済学部コンビの様子を窺いに行ったりと、何とも緊張感の無い時間を過ごした。
気付いてみれば、いつの間にやら打ち解けたように会話を交わしている親友と令嬢に、
少しばかり置いてけぼりを食ったような気分になる。
その都度江神さんには「僻むな僻むな」と笑われてしまった。

そうこうしている内に回ってきた二度目の見張り役の頃には、
時計の針はきっかり午前零時を指し示していた。


「朝まで付き合うことないよ」
「これじゃ帰れない」


部長の洞察力を疑うつもりはないが、
江神さんの心配するような劇的な出来事が起こる気配は今の所全く無い。
変化の無い状況にもう大分倦んできた。
雑談のネタももはや尽きて、今やこうして全員が閉口している時間の方が長い。
部屋中を支配する沈黙。
冷えた空気。

と。


「江神さん。有栖川君から聞いたんですけど…」


そんな静寂という水面に波紋を投げかけたのは有馬嬢だった。


「山のことか?」


江神さんは煙草の煙を吐き出しそう答えた。
今まで目を閉じ腕を組んでいたが静かにその瞼を上げる。
情報源が自分なので手痛い視線を寄越されるかとも思ったが、そうでもなかった。
というよりもむしろ、そもそも二人の会話に反応したわけではなかったらしい。
空きビルに着いてから一度たりとも確認などしなかった腕の時計に視線を落とすと、
すっとその眼差しを細めた。
内に鋭さを潜ませた冴えた視線。
つられて自分も腕時計を確認する。
零時、少々過ぎ。
が顔を挙げる。
それもこちらへ。
否、窓の外か。
心臓がどくりと大きく脈打った。
思わず視線が外へと流れる。


「───あっ」


それが自分の発した声だと気付くのに、コンマ数秒のラグが生じた。


「どうした?」
「裏口が…」


文誠堂の裏口が開き、人影らしき黒いものが出てきたのだ。
声が震えた。
指先が温度を失って、掌がじわりと汗ばんだ。
江神さんが窓辺へと飛んで来る。
その背後ではが「麻里亜はアリスと行動して」と令嬢に指示を出していた。


「何か持っている。モチと信長に報せろ!」


はい、と。
言ったつもりだったのだが、聞く間も無く走り出した部長の勢いに掻き消されてしまう。
すぐにが部長の後を追って走り出す。
急転した展開に一瞬気圧されかけて、「有栖川君!」という令嬢の声にはっと我に返る。
「すまん! モチさん達の所へ急ごう!」と数秒遅れてようやく二人駆け出した。


「江神さんの推理が的中したわけか!?」
「信長、アレを持ってこい!」


四人で空きビルの錆びた外階段を駆け降りる。
カンカンと外階段特有の金属音が騒音まがいに響き渡ったが、
誰一人として気に止めることはなかった。
まずは駐車場に向かい、L字型の敷地内を通り抜けて文誠堂の裏口へと回る。
全速力に近い速度で走ったというのに、
先陣をきった二人の姿は、その背中さえも見つけられなかった。


「居た…!」


僅かに息を切らせて辿り着いたそこには、部長と親友の後ろ姿、
そして二人と向かい合う形で立ち、自分達を見て小さく呻いた溝口氏だった。


「そんなものまで用意してたんかいな」


江神さんの読みは的中していたらしい。
信長さんの横脇に抱えられた"ソレ"を見て溝口は、溜め息と共に両肩を落とした。


「わしの負けや。
 千里眼で見られとったようやからな」


そんな、何処か安堵したような溝口氏の声に、
息など全く切らした様子の無かったはずのの肩が一瞬びくりと、微かに震えた。
ような気がした。


「狐に抓まれたみたいや。
 わしが放火しようとしていることが、なんであんたらに判ったんやろう?」


そう、信長さんの腕の中にあるのは赤い消化器。
部長の指示で、この日のために下宿から持ち出してきたものだ。
そして溝口氏の足下には青いポリタンク。
この二つの対決道具からだけでも容易に推測できるように、導き出される答えは一つ。
放火。
それこそが江神さんの懸念の示した所であり、また未遂に終わった溝口氏の犯行だった。


「判ったというよりは空想してしまったんです。
 溝口さんが無意味な浪費を繰り返しているのを知って、
 何故そんなことをするのだろう、とあれこれ考えているうちに浮かんだ空想です」


虚栄のためでもなく。
快楽のためでもなく。
贖罪のためでもなく。
ただただひたすらに財産を放出し尽くそうとするその行為の目的とは何か?
江神さんが辿り着いたそれは、至って単純明快にして革新的な答えだった。


「───あれは、無一文になるための蕩尽だったんですね?」


そう、蕩尽の結果そのものこそが目的だったのだ。


「しかし、無一文になるというのは恐ろしいことですから、
 素寒貧になって何かいいことがあるのかについて引き続き考えなくてはなりませんでした。
 想像力の鍛錬になった気がします。
 無一文になった自分を思い描いてみると、たった一つだけ手に入るものが浮かんだ」


江神続けて言う。
蕩尽の、その先にあるものについて。


「失えるだけ失ったなら、人は逆説的に無敵になるということ」


自分の部屋を空っぽにしておけば、空き巣が入っても何も盗られるものがない。
空き巣に入られ唯一の財産であるテレビを盗まれたという、
経済学部コンビと同ゼミの生徒の心境というのがまさにそれだったのだろう。


「無い袖は振れない、というわけです」
「せや、わしは自分の袖を引きちぎるために、ありったけの金を棄てたったんや」


溝口氏は、否、疲れきった老人は両肩を大きく上下させて溜め息を肺から吐き出す。
そして何とも痛々しい、自嘲的な笑みを浮かべた。

遊び知らずの堅物が、それこそ必死になって蕩尽に励んだ三ヶ月。
ありったけの財産を無我夢中で棄て切るという荒行。
そこにどれだけの苦労があったのか。
自分には想像もつかない。
けれどそれが、痛いぐらいの空しさを伴うものであったろうことは、
何となくではあるけれど、眼前の溝口氏の表情から感じとれた。


「無い袖は振れない、という言葉が用いられる場面はかなり限定されている。
 他者から金銭の支払いを要求されるか、借金を頼まれてノーと答える場面です。
 しかし、意地でも弁済したくない債務なんて変なものを、
 溝口さんが抱えているとは聞かないし、
 絶対に応じたくない借金ならきっぱりと拒絶すればいい。
 では、どうして?
 ───閃いたのは、これは意地でも弁済したくない債務が、
 これから生じると見越しての行為ではないのか、という突飛な仮説です」


そうなのだ。
この蕩尽の謎を解く鍵は、文化人類学でも民族社会学でもマルクス経済学でもなく。


「その債務とは、損害賠償」


他でもない、法学にこそあったのだ。
民法第709条、<故意または過失に因りて他人の権利を侵害したる者は、
之に因りて生じたる損害を賠償する責に任ず>、に。


「…卑劣な奴らなんやで、ここの夫婦は」


憎々しげに絞り出した声と顎で、溝口氏は隣家を示した。
そこには、つい数日前に笑顔で奢ってくれた気の良い親爺さんの雰囲気は欠片も無かった。
在るのはただ、深い悲しみと憎しみを帯びた一人の復讐者の顔。


「娘の幸福を奪うたことを、絶対に赦すわけにはいかん」
「だからと言うて、家に火をつけて燃やしていいわけじゃないでしょう」


しかしそんな冥い表情もすぐにほどけて、静寂に散る。
気色ばんだ信長さんに寂しげな視線を送ると、左右に首振ってぐったりと俯いた。
落とした目線の先にはポリタンク。
その角を、骨張った手で撫でて"親爺さん"は、
まるで神父に懺悔でもするかのような口調で言葉を紡ぎ始めた。


「あんたの言うとおり。
 わしは魔物に取り憑かれたんや。
 奴らが奪っただけのもんを奪い返すことは不可能でも、
 目にもの見せてやる、と憎しみを滾らせているうちに、
 突拍子もないことを思い付いてしまった。
 命までは奪らんが、物心両面にできるだけの打撃を加えてやろう。
 それには奴が大事にしている想い出の品々もろとも家を燃やしてしまうに如くはない」


二軒隣は空きビル、裏は駐車場。
もし延焼したとしても被害が出るのは溝口邸と文誠堂のみ。
むしろ延焼の可能性すらも好都合と、そう思ったのではないだろうか。
だからこそ、店の本をただで配ったり図書館へと寄贈したりしていたのだ。


「あいつらは、娘の嫁ぎ先で可愛い孫に添い寝しとる間に家を失うんや。
 怒り狂って金銭的な償いを求めても、取れるものはほとんどない。
 地団駄踏んで悔しがりよるやろうと考えたら痛快で…。妄執と言うしかありませんな」


ふらりと、溝口氏が顔を挙げる。


「あんたらのおかげで最後の一線を越えずに済んだことに感謝しますわ」


そして自分達に向かって深く、腰を折った。

感謝する、と。
言われても素直に喜べないのは、今後の溝口氏のことを考えれば当然だった。
溝口氏は復讐のために多くのものを失ったというのに、
その原因たる憎き夫婦との隣合わせな生活はこれからも続くのだ。

力なく我が家を、我が店を見上げる溝口氏の痛々しい横顔。
慰めの言葉は見つからない。
溝口氏は何もかもを失ったのだ。
そう、何もかも、全て。


「奥さんやお嬢さんとの想いでが詰まった家が、焼けずに遺りましたよ」


江神さんは穏やかに言う。
そうだ。
残ったものはあるのだ。
こうして目の前に、現実に。
それはこの家も然り。
溝口氏自身もまた然り。


「…溝口さん。
 大切な人々との想い出というのは、それだけで人を生かしてくれます。
 自分も、そして想い出の中の大切な人々も。
 …たとえそこに今生の別れがあったとしても。
 ですからどうかこの家を、奥様や娘さんとの想い出を、
 御自身共々、これからも大切に生かしてあげて下さい」


は静かに言う。

そう、取り返しのつかない事態は回避したのだ。
ならば必ずどこかで取り戻しは利くはず。





「……名探偵が、悲劇を未然に防いだのね」





そんな有馬嬢の呟きを幕に、事件は終わりを迎えた。










そうして、爽やかな風が吹く五月。


「アリス、!」
「お、マリア」
「マリア、そこ足下。気をつけて」
「へ? …わっ!」


しっかりと足の生えた元・幽霊部員の有馬嬢は。


「っと」
「あ、ありがとう、アリス。それにも」
「どういたしまして」


今年たった一人の新入部員として。





「それじゃあ気を取り直して…さぁ今日も張り切ってEMCへレッツゴー!」





そして6人目の部員として、新たにEMCメンバーに加わった。



ようやっと完結です、別考察シリーズ。
連載だというのにネームも何も切らなかったもんで、
最後の方は息も絶え絶えにも、収拾のつかない事態に陥ったり。
リクエストして下さったもへじ様、ありがとうございました。
そして同時にお待たせしてしまって本当に申し訳ありませんでした。
こんな連載ですが、少しでも楽しんで頂けていたら幸いです。