蕩尽に関する別考察 5








ぱっと視界の端へと映り込んできたのは目にも鮮やかな赤。
そしてその赤の正体はといえば、ラウンジ入り口に現れた一人の女生徒だった。
先程2限の講義が終わった後、アリスが昼食に誘うか誘うまいか迷っていた窓際の令嬢だ。
ラウンジに来る理由など本当に人各々なのだろうが、入って来た時の様子や仕草から、
初めから特定の個人を想定してはいないが、
自身の目的とするところを達成するにあたって特定の要素を持つ、
その要素に一定の適応率を備えた一人を、
不特定多数の人間の内から発見順位でもって採用するために探しに来たのだろうと。
要するに、おそらく誰か知り合いにノートやらの類いを借りに来たのだろうと。
彼女の交友関係や講義の出席状況など全く把握などしていないが、
それが千視万考・数十歩手前の思考が"視"通した現実の中で、
最も確率の高い可能性だった。
だからアリスに声を掛けた。
そしてそれは正解だったようだ。

別段、外れたらといったような心配などしてはいなかったけれど。


「やっぱりセイヤーズは押さえとかんとまずいやろう」
「……有栖川君。ちょっと、いい?」


自分達にすれば取るに足らない雑談に過ぎないが、
彼女からすれば歓談とでも映ったのだろう。
会話に割り込む形で声を掛ける事に気を遣ってか遠慮がちに口を開いた。
その様子に周りの誰よりも一歩遅れて気が付いたらしいモチさんは一瞬口を噤んだが、
幾らか声のトーンを落とすと、アリスのみを聞き手から脱落させてまた語り出した。
アリスもその意を踏まえたらしく、彼女の方へと座ったまま向き直る。
私も耳を傾ける程度にモチさんの語りへと向き直った。


「ところが俺はセイヤーズと縁が薄いのか、古本屋でも古書市でもさっぱり出会えん。
 しかもどこかの親切なはずの後輩も初版持っとって、触らしてもくれへんしな」
「あれは他と違って戴きものなので」
「せやかて、本を開かせてもくれんやないか」
「…下さった方が特別なんですよ」


セイヤーズは一通り揃えてあるが、その中には"あの人"から贈られたものが多い。
探偵でなくなった今でも、私の中を占めるあの人の存在は大きいのだ。
僅かながらも、独占欲にも近い感情が働いてしまう程度に。
そしてきっとこれからもそれは変わらないのだろう。

未だ『懐かしい』ものとして過去を振り返ることのできない自分に気付いて、軽く失望した。


「まぁええわ。がそこまで頑なな態度を取るにもそれなりの理由があるやろうし。
 で、セイヤーズの話に戻るけどな。
 『大学祭の夜』どころか、まだ『ナイン・テラーズ』に遭遇したこともないやからなぁ。
 乱歩が海外ミステリ・ベスト10に選んだ作品やっていうのに。あれを───」
「持ってますよ」
「───あ」


まるで人生の不幸を嘆くかのように大袈裟な語りを振舞っていたモチさんを、
口を半開きに停止させたのは、先程までアリスとノートの貸し借りをしていたはずの彼女。
ぎぎぎ、と妙な音を立てながらぎこちなく顔だけを振り向かせるモチさんに、
彼女はにっこりと微笑んで。


「ドロシー・L・セイヤーズの『ナイン・テラーズ』なら持ってます。
 お貸ししましょうか?」


口で言う代わりに、その目で「信じられない」と驚愕を表すエラリー・フリークは、
ずるずるとベンチからずり落ちていく。
その姿に誰一人、何一つ口を挟まなかったのは、
我等がEMCメンバーの全員もまた似通った心境だからだった。
まさに唖然。
程度は周囲のそれ程でもないが、勿論この私も。


「……貸して」


ずり落ちた眼鏡を押し戻しつつ、彼女へ向かって右手を差し伸べる。

そうそうある事でもないが、時たまこういう事があるのだ。
情報の集積不足から生じる"意外"な展開が。
普段は敢えて必要以上の情報を得ないよういくらか思考を制御して行動しているのだが、
"想定外"とはまた違う"予見外"のそれは、何度捕われても不思議な感覚を伴うものだと思う。
一般の人間からすれば何の事はない"意外"な展開も、
情報さえ揃っていれば大概の事は予想の範疇となる私にしてみれば、稀な体験となる。
成就の確率が低かったが予想の内にはあった、"想定"の"外"の事象と、
全くもって予想すらし得なかった、"意"の"外"となる事象とは別物なのだ。


「君はアリスの友だちか? ミステリが好きなんやな」


江神さんが言う。
セイヤーズの絶版本を持っているぐらいなのだから、相当な好事家か、
もしくは好事家を親類に持つ人間だろう。


「入部の申し込みにきたわけでもなさそうやけれど」
「入部って、どういうことですか?」


"入部"という単語にきょとんとしてみせた彼女に、
アリスが親切なのか不親切なのか、無言で画用紙製のネームプレートを指さした。


「……推理小説研究会?」


まるで不思議な物でも見ているかのような口調の彼女。


「そう。つまり推理小説の研究会」


まるで説明になっていないモチさん。


「こういうサークルがあるのを知らんかった?
 今年もあちこち勧誘のポスターを貼ったんやけど」


男子トイレの壁にですけどね、とは敢えて口に出さなかった。
それはアリスも同じだったらしく、口に出す代わりに、
モチさんにばれないようにと肩で小さく溜め息を吐く。
江神さんはそんな自分達の様子を見て、
けれどどうしてか隣に座る私へと向かって真っ直ぐに苦笑を零した。
その優し気な苦笑いにどう反応して良いか判らず、一瞬酷く戸惑う。
結局小さく肩を竦めて見せることぐらいしかできなかった。
相変わらず愛想もなければ可愛げも無いと、自分でも思う。


「知らなかった。──もしかして有栖川君って、ミステリファンだったの?
 それも意外。一年間そばにいて、ちっとも気がつかなかった」


返答としては申し分無い。
けれどこの場の面子を考えると、言葉の選び方には少々問題があったように思う。
特に後者。
『一年間そばにいて』なんて、先輩達が喰い付くには絶好の撒き餌だ。


「呆れた話やな」


ほら。


「自分の趣味を下卑するなよ、アリス。
 お前、一年間も付き合うてる彼女にミステリファンやということ隠してたやなんて──」


期待を裏切らない勘違い発言。
けれど。


「そういう関係ではありません」


爽やかで速やかな否定。
どうやら私のささやかな心配など杞憂の産物だったようだ。


「外見ほど"お嬢様"していない…失礼ね、そういう言い方は。
 外見以上に逞しくできてるようね、彼女」
「そうやな…ん? "お嬢様"…?」





それが麻里亜に対する第一印象だった。



ようやっと麻里亜が登場。
……こんな亀の歩みでちゃんと完結するんだろうか、この連載。(汗)
な、長い目で見守って下さると嬉しいです、ハイ。