蕩尽に関する別考察 8








翌日、『ナイン・テラーズ』を携えてラウンジへと姿を現した彼女。
モチさんなんか両手を合わせて拝みまくってそれを受け取っていたし、
信長さんはすかさず気を利かせて自販機でカップのコーヒーなんて買って来る始末。
重大なミッションをこなした僕の功労など、全くねぎらうことも無く。


「僕ん時には無かったサービスや」


不満に近い気分になって、一緒というかほぼ同時に入部した、
隣に座る、今日も今日とて静かに本へと視線を落とす親友へと視線を向ける。
すると実に興味無さそうに「私にも無かったでしょ」と、
やはり本から顔を挙げることもなく、活字を追う眼球運動も止めずにそう返された。


「そのノート、見せて貰ってもいいですか?」


彼女が指し示したのは、一応名目上はサークルノートとなってる帳面。
表紙にでかでかと『部外秘』と銘打ってあるそれは、
読んだ本の寸評やら、その日食べたランチのメニューやらと、
日記とも独り言とも判別のつかない雑文を皆で書き散らした代物だった。

ちなみに内容を記入してるのはほとんどモチさんで、
ついで信長さん、更についで江神さんと僕、
そして最下位にといった具合にその記入率が低下する。
おそらくなど2〜3行程度だろう。
いつだったかモチさんにしつこく強要されて、
溜め息交じりにフェラーズの寸評を書き込んだのが最初で最後のような気がする。
初めての筆記を見た先輩陣が、その美筆ぶりに揃って感嘆していたっけか。


「私、こういうの好きです」


経済学部コンビが互いの拳をぶつけ合う。
はたしてこんな体育会系なノリのサークルだったろうか、ウチは。


「よければ有馬さんも何か悪戯書きしていって下さい。記念にサインだけでも」
「でも、部員でもないのに書き込むのは気が引けます。
 …まだ入ろうかどうしようかと迷っているので」
「聞いたか、
 見ろ、彼女の謙虚さを。
 そして部員であるというのに態として書き込もうとしない自分の傲慢さを反省しろ」
「論点が激しくズレているように思うのは私だけですか?」


モチさんが吹っ掛けまがいにもに絡む。
対しては、いつものことながら実にクールにあしらう。
有馬嬢が笑う。
信長さんが「また見事にいなされとるぞ、モチ」と声を立てて笑った。


「幽霊部員でも歓迎しますよ」


それらを笑って眺めていた江神さんが穏やかに口を開く。
するとその落ち着いた声色に安心したのか、彼女は「はい」と頷き、
「それでは」と言ってフルネームと住所を書き記した。
先輩陣から驚きの声が上がる。
理由は彼女の名前だ。


「有馬麻里亜とはなぁ…」


そう、彼女の名前は上から読んでも下から読んでもアリママリアなのだ。


「誕生日が聖母マリアと同じだから、という理屈をつけて、祖父が命名したんです。
 パズルや言葉遊びが好きだったもので」


「はぁ〜」やら「ほー」やらと感嘆の吐息を零す経済学部コンビを余所に、
前々から知り及んでいた僕は、今初めて知った彼女の住所に興味を引かれた。
『高野フローラル・ヴィラ』。
高野といえば。


「高野か。文誠堂の近くやな」


モチさんの独り言ともとれるその言葉に、彼女は「よく行きますよ」と答える。


「ああ、そう。親爺さんに本をプレゼントして貰ったことは?」
「本を頂いたことはありませんけど…御馳走になったことならあります」
「どんなシチュエーションで御馳走になったの?」


話を聞くと、友人と近くの喫茶店でランチを食べていたら、
偶然居合わせた文誠堂の親爺さんが知らぬ間に勘定を払ってしまっていたらしい。
しかも奢ってくれた理由を聞きに行けば『女子大生に奢るのは趣味やから』と笑ったという。
文誠堂の親爺さんのその奇妙なまでの親切ぶりは、
どうやら冴えない眼鏡の男子学生のみを対象とするものではないようだ。
まぁ何にせよ、これまた随分と気前のいい話だった。


「これは一度寄ってみるべきか?」
「………」
?」
「…やめておいた方がいいわ」
「は? やめておいた方がいいって…」
「関わらない方がいい」


そういえば、と。
昨日のの様子を思い出す。
騙されたと思って一度行ってみろといったモチさんの言葉に、
結局一言も口にすることはなかったが、確実に何かを言おうとした

そう、今と同じように僅かにその眉根を寄せて。


「それってどういう…」
「親爺さんは女子大生だけに驕るんやないよ。
 可愛い女子大生とみすぼらしい男子学生に優しいらしい」
「誰がみすぼらしいんや!」


またもや昨日と同様にして経済学部コンビの不毛な漫才に阻まれる。
さすがに二回目ともなると、いくら向こうに故意がないとはいえ、
少しばかりむっとして先輩二人に詰め寄ろうとする。
が、しかし。


「そんなんじゃないようです」


真剣な眼差しに、深刻そうな口調の彼女の様子にまたもや口を噤むはめとなった。


「文誠堂のご主人は──溝口さんというんですけれど」


彼女の話によると、文誠堂の親爺さんの名前は溝口というらしく、
またこのところご近所では専ら"おかしい"との評判を得ているのだという。
誰彼かまわず気前良く振る舞い、昼は商売の種である本をただで配ったり、
夜な夜な近所の居酒屋やスナックへと赴いては椀飯振る舞いにも奢り回っているようだ。
聞けば、想像を遥かに上回った気前の良さだ。
一種、病的と言ってもいい。
「何や、それ?春の陽気でおかしくなったみたいやな」と思わず正直な感想を述べれば、
「うん、そう噂してる人もいる。まともじゃないって」という相槌が返ってきた。
隣の親友へ視線を向ける。
相変わらず手持ちの文庫と向き合っていたが、その瞼はしっかりと閉じられていた。

それはまるで、何かを堪えるかのように。


「うーん、…きたな」


唸り声に視線を巡らせれば、腕組みをしたモチさんが不敵にその口元を綻ばせていた。


「これはミステリーやと思わんか?
 我々が挑戦すべき謎かもしれん」


不思議そうに小首を傾げる有馬女史以外は、まさにやれやれといった具合に顔を見合わせる。
心境はおそらく4人揃って「また始まった」だ。
これはモチさんの悪い癖の一つでもある。
何でもかんでも雰囲気さえあればそこにミステリな世界を築き上げようとするのだ。


「謎と言えば謎かもしれませんけれど…」


有馬嬢の口から更に親爺さんの近況な詳細が明らかになる。
まず、半年前に一緒に暮らしていた独身の娘さんが亡くなっているということ。
夫人とは既に十年以上前に死別して、娘を失ってからというもの、
温和だった溝口氏の態度が、徐々に刺々しく攻撃的なものへと変化していったとのこと。
この頃から奢り癖も現れたらしく、娘を失った喪失感を紛らわすために、
無駄遣いをしているのではないかというのが有馬嬢の見解だった。
ついで、溝口氏は隣家と激しく揉めているという。
ストッパーであった娘を失ったせいもあってか、その程度は、
周囲をしていつか事件に発展するのではないかとの危惧を覚えさせる程のものらしい。


「隣家とは何が原因でそんなに揉めているのかな?」


江神さんが聞く。


「マスターがぼそぼそと話してくれたところから推察すると、
 お隣が酷く失礼なことをしたらしいんです。詳しい事情は知りません」


見遣れば、話の間にモチさんは随分と大人しくなっていた。
面白半分に謎だミステリーだと騒ぎ立てるべき問題ではないと察したのだろう。
おそらくはが一言も言葉を発しないことにも起因しているはずだ。
そういう状況判断という点では確固たる信頼を置いているのだ、に。
けれどモチさんのそんな思慮深い懸命な判断を無いものとし、
ミステリーうんぬんな展開を蒸し返したのは信長さんだった。


「で、その不快さと孤独を紛らわすために相手かまわず散財をしている。
 それが有馬さんの見解やね。
 せやけど、それはあんまり筋が通ってないんやないかな」
「そうですか?」
「不自然やと思う。
 無駄遣いをして憂さ晴らしをする、というのは理解できる。
 ただそのやり方がおかしい」


信長さんの言い分は最もだった。
確かに無駄遣いでもって憂さ晴らしをするのなら、
自分の欲しいもの買ったり、自分のしたいことしたりと、
信長さんの言を借りるなら酒池肉林的な方向に、
言ってみれば自分の快楽を満たすために散財して発散させるはずだ。
それを"奢る"という形で他人の為に、というのは少しばかりズレてる気がする。

信長さんの言葉にモチさんもかなり納得したらしい。
今やその目はしっかりと好奇の色を取り戻している。
モチさんだけではない、有馬嬢に江神さん、そして勿論僕も。


「どうや、アリス?」
「つい納得させられてしまいました。
 信長さんの言うのに一理ありますね」


そのまま、『溝口氏には贖罪意識から自罰のために散財しているのでは』との、
有り合わせな持論も展開してみせたが、根拠薄弱として有馬嬢に否定された。
確かに、無根拠に想像を膨らませるのは少々問題ありか。


「推理小説研究会って、いつもこんな風なんですか?」


別段侮蔑の念も込めた風もなく彼女は、
どちらかといえば傍観に徹していた江神さんとへと尋ねた。
それはそうだろう。
他人の散財についてまるでゲーム感覚にも大いに吟味し、
妄想を巡らせ語り合っているのだから、不思議がるのも無理はない。


「いつもではないけれど、よくある。やめられない癖みたいなもんか」
「聞き流してくれたらいいですよ」


彼女がちらりと僕の方を見る。
手痛い視線から、言いたい事は何となく判る。
昨日話した去年の夏の話の信憑性を疑っているのだろう。
残念ながら、そんな大胆な作り話を即座に作り上げるだけの大層な創作力など自分には無い。
ついでに言えば演技力も。


「そんなことは措いて。
 今晩、みんなで飯でも食いに行くか。
 良かったら有馬さんも一緒にどうです?
 こいつらの素晴らしい本性が判る。なあ、?」
「素晴らしいかと聞かれたら甚だ疑問ですが。
 まぁ入部を決めるにあたっていい指針にはなるんじゃないですか?」
「プレッシャーかけるなよ、…」


そんなこんなで。
行く店は、高野の<サライ>という無国籍創作料理の店に決まった。
推薦者は勿論モチさんだ。


「あそこやったら味も雰囲気も、ついでに値段も合格やないかな。
 有馬さんの下宿にも近いから、帰りも安心やろうし…」


後に続くべき言葉の予想は容易についた。


「文誠堂を覗いてみられるって言いたいんでしょ?」
「お、それもそうやな」





白々しい。
と共に小さく肩を竦めた。



本文を読んでない方にも楽しんで貰おうと詰め込んだらこんなことに…(汗)
毎度毎度言ってますが、もっとすっきりとした文書を書けるようになりたいっス。