視界の端が捉えたその人の横顔に。
私は己の運の悪さを呪い、そして運の良さを嘲笑った。
You say hello,
and I say….
「嬢!」
振り切れなかった。
その声に、その気配に、その優しい雰囲気に。
素直に反応してしまった自分の身体と心が口惜しい。
隣り立った助教授の怪訝な視線が痛い。
「嬢だろう!?」
重ねて呼ばれる、というよりは切実な声色で叫ばれる自分の名前。
今後ろから駆け寄って来るあの人はどんな顔をしているんだろう。
そして今の私は一体どんな顔をしてるんだろう。
隣の助教授はどんな顔でそれらを見ているんだろう。
乾いたと思っていた心の傷が疼いた。
「やはり嬢だった…!」
振り向かなくたって判る。
きっと背後に在るのは黒いシルエット。
冬以外はいつだって季節外れの黒いコートに、黒い手袋。
黒いフェルト帽に、その下の長い前髪の間から覗く綺麗な黒い瞳。
今の彼はきっと、ようやく母親を見つけた迷子の子供のように微笑ってる。
「久しぶりだな、嬢」
振り返る。
ほら、やっぱり。
「龍宮さん…お久しぶりです」
「ああ。本当に久しいな…変わりないようで安心したよ」
変わっていない訳がない。
だって私はもうJDCの探偵ではないのだから。
だから、そんな風に穏やかに微笑わないで。
「やはり龍宮は運が良いんだな」
そんな風に優しく話し掛けたりしないで。
「こうしてまた嬢に逢えたのだから」
自分が、どれだけ脆弱な人間であるかが露呈されてしまうから。
「?」
「…え、あ、はい。火村先生、こちらはJDC第一班の龍宮城之介さんです」
元同僚、という単語は敢えて深い所へと飲み下した。
目の前の黒衣の探偵は一瞬、気配で苦く笑った。
ような気がした。
「龍宮城之介です。どうぞ宜しく」
「どうも」
「龍宮さん、こちらは英都大学社会学部助教授の火村英生先生です」
酷く儀礼的な挨拶。
相変わらずにこやかな笑みを絶やさない龍宮さんに、
初対面の相手に多少の愛想を、無い引出から取り出してみせる助教授。
そして、機械的にそれらを繋ぐ処理をこなす私。
この場から逃れたくて仕方ない自分。
「正直、こんな所で嬢と逢えるとは思わなかったよ」
「それは…そうでしょうね」
「立場はどうあれ、また"現場"に戻ってくれたんだな?」
その口調は確認というよりもむしろ、切願といった類いのもので。
「いいえ」
だからこそ否定する。
「私はもう、"探偵"ではありません」
そしてただ、事実を口にするだけ。
「私はもう推理することをやめたんです」
黒衣の探偵は何かを言いかけて、悲し気に口を噤んだ。
「…ならどうしてこんなところに?」
「あの人は私が通ってる大学の助教授で…犯罪社会学を専攻していらっしゃるんです。
しかもフィールドワークと称して、こうして実際に事件と接する、
変わった流儀の持ち主…唯一の友人から臨床犯罪学者なんて言われてる変わり種でして。
一応、私は助手という立場にあるので…『"助言"の範囲で』お手伝いしています」
「ふむ。それはまた面白い…いや失礼か。とても興味深い人間だな」
今度、ゆっくりと話してみたいなぁ、なんて。
ふと空を見上げて微笑うその笑顔は先程とは打って変わって、
あの頃と何一つ変わらなかった。
変わらないということが、辛かった。
「嬢」
胸の奥が揺らいだ。
「───戻って、来ないか?」
この身のどこかしらで待っていたその言葉。
けれど私は。
私の『千視万考』は触れてしまった。
『世界の謎』に。
そして私は放棄した。
凍てつくような絶望に、私は呑まれたてしまったのだ。
「嬢…」
「………。」
「JDCの人間はみんな、嬢が戻ってくるのを待ってるんだ」
確かにそうかもしれない。
優しいあの人達は皆、このまま私が探偵に立ち戻っても笑って迎えてくれるかもしれない。
「九十九嬢や霧華嬢、氷姫宮氏に天城氏。九十九氏だってそうだ。
総代も敢えて言葉にしないだけで、嬢が戻ってくるのを心待ちにしている」
戻れないことは、ない。
「───…鴉城氏もそう望んでいると、龍宮は思う」
けれど。
それが私なら同じ。
私自身が戻る場所が無いと思っているのなら、それは戻れないのと同じ。
「死人に口無し、ですよ」
「嬢…」
「蒼也を引き合いに出すなんて…随分と卑怯な手段に出るようになりましたね」
そう、一撃八つ当たる。
表情にも、声色にも嘲笑にも似た気配を漂わせて、
暗く冷たい光をともしているのだろう自分の双瞳。
「嬢、龍宮は…」
「もう結構です」
馬鹿らしい。本当にどうしようもない。
自嘲漬けになって、歪んだ笑みを顔に貼付けているのだろう自分。
複雑そうな、酷くいたたまれない表情の相手。
「あれは、嬢のせいじゃない」
貴方が言いたいことは判ってる。
けれどそれを"私達"が受け入れることはできない。
できるわけがない。
受け入れていいはずがない。
許される、はずがない。
「螽斯氏が、鴉城氏が死んだのは……誰のせいでもないんだ」
そう、『誰のせいでもない』。
なぜならそれは『誰も知らない』から。
『誰のせいであるか』という真実を『誰も気付いていない』から。
だからこそ『誰のせいでもない』。
けれど。
「───"私達"のせい、ですよ」
私と貴方は『知っている』。
本当は『誰のせいであるか』に気付いてしまっている。
気付いているからこそ、私達にとってそれは絶対の『罪』。
「二人が死んだのは"私達のせい"でしょう…ッ!!」
突き付けた言葉は断罪の剣。
判ってる、これが自己満足だということは。
傷付けば傷付くだけ、償ったつもりになって。
実際には何一つ償ってなどいないのに。
この『罪』を重ねていくだけだというのに。
「蒼也達が死んだのは、私達の…私の、せい……」
「違うッ!!」
「…もう、放っておいて下さい」
「嬢…っ!」
「もう思い出させないで…ッ」
いづれ終わる世界なら。
「もう何も"視"たくない…!!」
最後のその瞬間に何一つ感じることのないよう、独りきりでいさせて。
「」
「…火村、先生」
「いつまでさぼってるつもりだ」
「………」
「さっさと来い」
いつの間に其所にいたのだろう。
どこから今の話を聞いていたのだろう。
助教授の顔に表情らしき表情は無い。
あるのはただ、差し出された大きな掌。
「失礼する」
「…失礼します。久しぶりに会えて良かったです」
「───嬢!」
「JDCの皆さんにも宜しく伝えて下さい」
温いそれを掴んだのは私。
「……判った。嬢はもう選んだんだな、独りで"待つ"ことを…」
弱い、私。
「───はい」
遠ざかる二つの背中。
「あの時…嬢がJDCを去ったあの日」
今も思い出すのは、彼女の泣き顔。
「もしも龍宮が『行かないでくれ』と、涙したのなら…」
自分が知る限りただ一度きりの彼女の涙。
「嬢は今もJDCに…」
涙とは無縁と思われていた彼女がただ一度きり、助手の死に流した涙。
「たとえ"探偵として"であっても…龍宮の傍にいてくれたかな?」
ちょっぴり趣向を変えて切ない系を。のつもりだったのですが。
もう、読まんといたって下さい。(土下座) ←手遅れ
本当何が書きたかったんだろう自分。
蒼也前提で、龍宮さんの片思い→悲恋。しかも助教授も何だか一方通行チック。
…気分を悪くしてしまった方、申し訳ない。