愛
猫
バシン!と叩き割らんばかりに卓を殴って勢い良く立ち上がり、探偵は拳を握った。
「そうか判ったぞ!」
「ひ…っ、な、何なんですか榎さん、突然に」
この文字通りの眉目秀麗な男にとって、『突然』は『突然』でありながら『突然』ではない。
「───関巽!」
だからといって便宜上、一般向けにとこの『突然』を強いて彼に準え定義するとしても、
やはりそれはどうしたって人類共有のそれとは大きくずれてしまうのだ。
故に結論として、彼の行動に関して『突然』という単語を使用するのは適当ではない。
だから彼を知る、関口以外で人並み学習能力と適応力持つ知人・友人は、
彼に対して滅多な事でなければこの『突然』という単語を使うことはない。
常識を跡形も無く粉砕する男・榎木津礼二郎。
「何て河馬の様な格好をしてるんだ。君は猿であって河馬じゃないだろう?
まったくもってなってない! もっと猿としての自覚を持ったらどうだ!?」
「う、ぁ…」
もう15年以上にもなる、
腐り切り発酵していてもおかしくない付き合いを持つにも拘わらず、
そんな愚かな言を発した失語症持ちの小説家は予想通り不明瞭な発声を口内で詰まらせる。
この『猿』という渾名を長年の付き合いの産物、
親愛の称だと思ったらそれは大いなる誤解だ。
なぜなら、榎木津礼二郎はただ単純にそう思っているだけなのだ。
「しかもだ! 君の場合、猿は猿でも按摩猿…」
「───榎さん。それで、何が判ったんですか」
「ん? おお、そうだ! そうだった京極堂!!
決まっているだろう! 京極堂、お前が君を気に入っている理由だ!」
「………は?」
一方的に突っ込まれ続ける漫才を座敷で繰り広げていた榎木津と関口を余所に、
今までずっと、揃って静かに読書に勤しんでいた黒い着流しの男と白いブラウスの娘。
その二人のうち、痩せぎすの目つきの悪い古書師が間の手を入れ、
また返って来た躁病の気がある男の脈絡の無い応答に、
少女と形容するには大分大人びた、けれど女性と形容するにはまだ幾分幼さを残す、
不思議な雰囲気を纏った娘が、実に不可解だといったように眉根を寄せた顔を上げる。
彼女の名前は。
一同は京極堂から、"友人"と紹介されている。
その友情の元は彼の妹、敦子を介しての繋がりでもなければ、
細君の千鶴子の交友関係から生じたものでもないらしい。
純粋な自分の"友人"だと言って、
歳若い、しかも見目麗しい娘を彼自身から紹介された時には、
関口など憐れみすら感じさせる程真剣に、自分の耳と心の病を疑ったくらいだった。
「それは君がにゃんこだからだ!」
そんな小説家に対して、型破りなこの探偵はといえば、
目を輝かせて「気に入った!」と宣言するなり、
初対面早々にも「僕の処に住みたまえ!」と爽快に強要したものだ。
そしてその男は現在、腰に両手を当てて、
してやったりと此れ言わんばかりに胸を張りふんぞり返っている。
「どうだ? ぐうの音も出まい?」
『鼻高々』というのも、
この男がやると形容ではなく描写になってしまうからどうしようもない。
「………私が猫、ですか」
「榎さん…また何がどうしてが猫なんです?」
「何をすっとぼけてるんだ。お前のその目は落書きか、京極堂」
ビシッと人さし指を突き付けられた本屋は、僅かに右眉を跳ね上げる。
一方話題の中核を成すはずの娘は、賢くもただ黙って事の成り行きを見守ることに、
要するに傍観に徹することにしたらしい。
探偵と本屋のやりとりをおろおろと見守る、いまだ失語症併発中の小説家。
それらの様子も全く意に介さず爆走し続ける探偵は、更にその速度を跳ね上げていった。
「どう見たって君はにゃんこだろう!」
「…一応ヒト科の生物ですが」
「また初っから何訳判んねぇ事言ってやがんだ、このタコ」
「木場さん」
「おう、邪魔すんぜ」
すると、本屋の細君に伴われて障子の向こうから姿を現わしたのは、木場修太郎。
彼は榎木津の幼なじみにして、破壊的探偵に急ブレーキをかけることができる、
というよりは叩き潰しにかかって急停止させることができる唯一の人間だった。
「やれやれ、今日は本当に来客の多い事だ。
ここはまかり間違っても町内会の寄り合い所じゃないんだが…千鶴子」
「はい。今新しい茶葉を買って来たところですから」
心底うんざりしたような仕草で鬱陶し気に髪を掻き揚げる本屋は、
確かに鳥口曰くの男前と言えなくもないが、不機嫌最高潮といった具合である。
一方、色白で西洋人を思わせる類いの美人である細君といえば、
不機嫌この上無さそうな夫の所作にも柔らかな表情を崩さず、
名を呼ばれただけで彼の人の言わんとするところを了解し、また補うように言葉で確認した。
そんな夫婦のやり取りを一度しっかりと視界に収めると、は軽く腰を浮かす。
「お手伝いします」
「あら、いいのよちゃん」
「でも」
「この人の入れた薄いお茶のお詫びに、ね」
「千鶴子」
「ふふ。ごめんなさいね、私が間悪く家を空けたばかりに。
でもね、ちゃんには後で夕食の支度を手伝って貰おうと思ってるの。駄目かしら?」
「いいえ、喜んで」
そんなほのぼのとした日向の会話を背景として、
一方では殺伐とした、本日初めて相手に向かって口を開くはずの竹馬の友同士の、
異次元的会話が展開され始めていた。
「…だいたい俺はなぁ、20年近くもお前のような奴と付き合いがあると思うと、
世間様に申し訳が立たなくて腹切って首を括りたくなるんだよ、このタコ」
「蛸蛸言うな、馬鹿修! 僕が蛸ならお前なんか海底を這いずる正方形の鮃だ!」
「減らねぇ口でまたべらべらと訳の判らねぇ事言いやがって…オイこのタコ。
お前『蛸の糞で頭へ上がる』って言葉を知ってるか。お前の為にあるような言葉だぜ」
「『蛸の糞』何だっていうんだ!
見た事もがあるのか?無いんだろう?この積み木人間!!」
「あんだとコラァ!?」
「積み木じゃなかったら畳だ! 畳! この四畳半野郎!!」
「え、榎さん…っ。それに、き、木場さん、も…!」
先程の古書師と娘のように殊更無視を決め込めば良いものを。
張りつめた二つの空気の衝突で発生する得体の知れない重圧に苦悩する関口。
哀れなことこの上ないが、更に憐れなのは、持ち前の不幸っぷりを発揮してか、
この程度の天災とも言える災難に対して助け舟を差し出してくれるような人間が、
この場には一人もいないということだ。
「……先生、関口先生を助けなくていいんですか?」
「触らぬ神に祟り無し、だ」
「でもこちらから触れなくとも、この場の『神』は絶対に向こうから接触してきますよ」
「オイ京極堂! 僕に断りもなく誰の許可でもって君とイチャついているんだ!?」
「ほら」
「………」
そんな戦場顔負けの喧しさ。(主に一人の人間のせいだが)
基本は温厚な彼にも堪忍袋なる代物があったらしい。
良く響く通る声に、まるで親類一同が奇病で死に絶えたような仏頂面でもって、
静かに凄みを利かせて言い放った家主・京極堂こと中禅寺秋彦の一言は。
「───騒音公害だ」
その場の騒音を沈めるに十分だった。
「だから何だ!!」
…やはり約一名を除いては。
「どうしてお前は自分がにゃんこ好きだと認めない!」
「いつそんな話になったと言うんです」
「さっきから言ってるだろうが、君がにゃんこだとも!」
「ですから私は人間です」という二度目の反論はなかった。
そんなことしても混ぜっ返すだけだということを、この下手に聡い娘は判っているからだ。
どうやら探偵の脳内では完結しているらしい論理の帰結。
それ以外の人間にすれば論理の飛躍どころかむしろ論理のワープとも言えるそれ。
これを一つずつ順を追って丁寧に解体していく作業にどれだけ折るべき骨を要するのか。
並大抵の理解力と精神力では耐えらるものではない。
疲れたように一つ溜め息を吐くと、本屋は開いていた古書から漸く視線を外した。
「榎さんはが猫だといい、
僕が猫を好きだから同様にをも気に入っている、と。
とりあえずは、そんな所で良いですか?」
「判ってるじゃないか。なのに何だ、その中途半端な物言いは」
「いいえ、何一つ判ってなんていませんよ」
「何を判らないことがある」
「確かに僕は猫は嫌いじゃない」
「回り諄い。はっきり言え。お前、にゃんこ好きだろうが」
あの不細工なにゃんこの溺愛っぷりはなんだ、と。
腕を組んで印度のヨガよろしくどかりと落下するように胡座を掻いて座り込んだ榎木津に、
同じく胡座だがこちらは所謂普通の所作で腰を降ろした木場。
と、その場の一同が同時に思い描いたのは眼前の本屋とその飼い猫の姿。
柘榴が京極堂にしか懐かないのは事実だが、額をぺしりとやったりするのを、
飼い主の愛情と取るかどうかは怪しいところである。
「まずが猫だ、と。その時点で論理が破綻してますよ」
「どうして破綻することがある」
「ならばどういった風に榎木津さんの中で論理が結ばれてるって言うんです?」
そう本屋に指摘され、
向かいのに少しばかり好奇心の混じった声色で逆に問い返されると、
榎木津は後者の顔だけを、じーっと穴を開けんばかりに不躾に覗き込んだ。
対するには何ら動じた様子もない。
拒むでもなく、流すでもなく、ただ静かにその視線を受け止めていた。
「どうしたってにゃんこじゃないか、君は」
「………だから私のどこがどう猫なんですか?」
「目元や顔立ちも、ついでに言えば気質もにゃんこっぽいだろう」
ああ、成る程と。
ここに来て、ようやっと同じ回答を共有することができた探偵を覗く座敷の面々。
「…テメェは、一々馬鹿丁寧なくらいに判り難いんだよ、このタコ」
あの京極堂の思考すら迷走させてしまうこの男に、半ば諦め気味に呟いた木場の評価は。
「ふん! お前みたいな構造不明な顔の骨格持ち畳人間に言われたくないぞ!」
「あんだとぅ!?」
探偵の暴走の再燃を煽るには十分だった。
「…それで実際の所、先生は私のこと好きですか?」
「───全く君は…」
いまだに休戦を得ない木場と探偵の口争と、
口を開閉させながら濁った音色しか零さない関口を背景に。
午後の柔らかな日溜まりに溶けるように零された涼やかな言の葉達に、
珍しく呆れ顔といった陽の表情を見せる本屋と、優しく穏やかな微笑を浮かべたその細君。
「ふふ、私は柘榴もちゃんも大好きよ」
「私も千鶴子さんのことが好きです」
「あらそうすると私とちゃんは相思相愛ね?」
「そうですね」
「ほら、あなたは?」
「千鶴子」
「先生はどうですか?」
「………」
淡く感情の揺らめく漆黒の双眼を向けて、は再度短く回答を促す。
その次の瞬間、万年の仏頂面を緩ませて本屋が返したその答えといえば。
「…本当に仕方の無い猫だな」
この男からは考えも及ばない程に、優しく。
慈しんでやるように少女の頭を撫でた利き手だった。
榎木津神、降臨。(笑)
中禅寺と千鶴子さんに可愛がられたいという私の願望から生まれたこの京極堂ドリーム。
ほのぼのとホームドラマを展開しつつ、堂々と榎木津ギャグをモットーに、
まったりペースでこれからぼちぼちと更新していこうと思います。