天
月
「君!」
すっぱーん、と。
有り得ないくらい爽快な音を立てて開いた座敷の障子。
あまりの勢いに、弾け飛ばなかったのが不思議なくらいだ。
そうして遮るものがなくなった其所に、姿を現した日本庭園を背景とし、
無体な仕打ちを受けたそれに両手を掛けたまま仁王立ちしているのは酷く眉目秀麗な男。
西洋磁器人形
ビスクドールの様に整った顔立ち。
大きな、鳶色がかった双瞳に、東洋人とは思えない程に白い肌。
色素の薄い茶色の髪は、さらさらと心地良いそよ風というか滑り込んだ勢いになびいている。
「…どうも、榎木津さん」
万物尽破壊的探偵・榎木津礼二郎、その人。
「君は何が欲しい?」
「………は?」
開口一番がそれか。
単刀直入と言えば聞こえは良いが、端からすれば脈絡の無いことこの上ない物言いは、
この人の特徴と言えば特徴であり、周囲に人間にとってはこの上ない頭痛の種でもある。
彼と一々注釈なしで対等な会話が可能なのは、
今は本業に励んでいるためこの場にはいないが、
現在自分がお邪魔している家屋の主にして本屋の店主、
京極堂こと中禅寺秋彦くらいのものだろう。
「君はもうすぐ誕生日なんだろう?」
「ああ、そういえば…便且上ではそうですね」
「便且上でも定規上でもいいんだよ」
「………いいんですか」
というか後者は断然意味不明ですよ、なんて突っ込んだりはしない。
何故かと聞かれたら、無駄だからとしか答えようがないのだが。
「さぁ、何が欲しい?」
にかり、と太陽のような笑顔に押し切られそうになって、
口を開きかけて何とか踏みとどまる。
僅かに目を細めてしまったのは、庭に柔らかに降り注ぐ午後の陽差しのせい。
そう、差し込む後光のせい。
決して、眼前の神に目眩を起こしたわけじゃない。
「別に…何も」
「何だって?」
「ですから、別段欲しい物はありません」
「無い訳ないだろう!」
両の手を当てた腰を綺麗にくの字折り曲げられて、等しくなる視線の高さ。
当然の帰結として、突如縮まる互いの鼻先までの距離。
至近距離からの相手の断定的な反応に、思わず眉間に皺が寄る。
「どうしてそう思うんです?」
けれどそれは不快感からくるようなものではなく。
言うなれば、自分の理解の範疇に無い、
一般に不可解という単語で括られる事象に対するまっとうな反応。
それに付随する淡い好奇心からだ。
『ああ言えばこう言わず、こう言えばああ言い飛ばす』。
天衣無縫、天真爛漫な上に非常識で躁病の気のあるこの人の発する、
視覚情報そのままの言葉はそれはそれで酷く興味を掻き立てられるのは事実だから。
「決まってるじゃないか!僕にはあるからだ!」
「………」
そうだった。
この人はそういう人だった。
『どうして』なんてまた、無駄な言を紡いでしまったものだ。
「僕は君が欲しいと思ってる」
「…それはどうも」
「欲しくて仕方ない。ということで何が欲しい?」
「何が『ということで』なんですか…」
文脈どころか単語の繋がりもへったくれもなく先程と同じ台詞を繰り返す目の前の麗人は、
ぐっと、その文字通りの眉目秀麗な顔を近付けてきて。
今や既に相手の呼吸すら肌で感じ取れる程に詰められた、鼻先から鼻先までの僅かな空間。
透けるような茶色の前髪、陶磁器のような白い肌、澄んだ鳶色の瞳。
ああ、綺麗。
「さあ、言ってごらん」
ならば。
「───世界、ですかね」
気分は何処ぞの月の姫だ。
「何だ、そんなものか」
相手は何処ぞの天を照らす神らしい。
「簡単じゃないか」
何が。
何が簡単だと言うのか。
戦争も終決したこの御時世下、愚かの極みにも国取りでも起こす気なのだろうか?
「僕は神だぞ」
そうだ。
そうだった。
この人はこういう人だった。
「さて、何処の国から欲しい」
「───いえ、やはり何もいりません」
「何なんだ。関巽並みの優柔不断さだぞ!」
「なら、そのお気持ちだけで結構です」
「京極堂並みの屁理屈だな、今度は!」
きっとこの人のことだから、後で先生に事の次第を洗いざらい喚き散らすのだろう。
おそらく私の誕生日についての情報源は先生だから。
ともすれば先生からは『何を考えているんだ、君は…』と、
量るまでもない不機嫌さで呆れられてしまうのだ。
想像した万年の仏頂面が思った以上に酷く現実味を持って再生されて、
危うく目の前の麗人の更なる問題発言を聞き逃すところだった。
いやむしろ、聞き逃すべきだったか。
「そういえば、それ以前に君は僕が欲しくはないのか?」
そう、そうなのだ。
この人はこういう人で。
だからこそ私はこうして、触れてくる指先にただ黙って目を閉じるだけ。
いや、やはり榎さんは神故にそれならそこは天照大御神たる太陽の神でないと、と。
そして物欲皆無なかぐや姫。というか月読。
というか、天照大御神って女の神様ですよね…。
月読も男の神だし……まぁいいか。←いいのか