黒白夫婦に
灰色の娘


「目が覚めたかね」
「はぁ…」


開いた口から出たのは、自分でも驚くぐらいに愚鈍で間の抜けた声だった。


「あー…えっと、その」


そんな何処ぞの小説家ばりにヘタレた声を発してしまったのにも訳がある。

意識がすっきりと晴れるまで数時間もの眠りを要したらしい私。
起きれば既に太陽は西日となりかけていた。
───しまった。
思ってがばりと身を起こしたところにやって来たのは先程の和装の女性。
「もう大丈夫?」と、額から掛け布団の上に落ちた手拭いを拾って彼女は、
やはり優しく微笑んだ。
それに「大丈夫です」と答えて「すみません…」と即詫びた。
不思議そうに首を傾げた女性に、「自分でもいまいち状況が飲み込めてないんですけど、
ご迷惑をお掛けしてしまって…」と俯きぎみにも辿々しい補足を加える。
行き倒れなんて理由がどうあれ迷惑以外の何でもない。
少なくとも私は行き倒れなんざ目の前にしたら非常に面倒だと思う。
しかも寝っこけて夕方まで居座るとは本気でどういう了見なんだ自分。
すると女性は「あら、そんなこと気にしなくていいのよ」と、声を立てて笑った。
そして「もし大丈夫そうだったら、夫に会って貰えるかしら?」と、
何とも気遣いに満ちた声色で言ってくれた。
勿論、拒む理由は無い。
二つ返事で首を縦に振る。
拾って貰った上にこうして介抱して貰った家主にお礼を言わない訳にはいかない。
それに自分が倒れた状況も聞きたかった。
散漫とした情報を整理したかったのだ。
夢の中にでも迷い込んだように突然放り出された白い坂。
良く通る、低い男性の声。
最後に視界が捉えた貧相な竹藪。
この信じ難過ぎる未確定な状況の数々を確認したい。
身を起こし、枕元に丁寧に畳まれていた灰色のブレザーを羽織って女性に案内をお願いする。
たおやかな所作で腰を上げたその人は、静かに障子を開けた。


「倒れていたところを助けて頂いたそうで…、どうもありがとうございました」


そして冒頭に戻る。

西洋風の色白美人な細君に通されたのは、壁一面に和書・書籍が堆く積まれた居間。
そして現在、目前には黒い着流しを着た痩せぎすの男性。
感情の読み取り難い不機嫌も極みな顔付き。
例えるのなら恨めしそうな芥川龍之介の幽霊、そんなところだと思う。
まさか、と思った。
否、まさかとは"思っていた"のだが。
細君に伴われて小さな庭に面した廊下兼縁側を歩きながら脳裏に浮かんだ虚ろな予感が、
今まさにじわじわと確信に変わりつつあった。


「それで…、のっけから不躾千万で本当に申し訳無いのですが…此処は何処でしょう」
「此所は中野の古本屋だ。
 君は其処の眩暈坂で倒れたのだよ」
「倒れたんですか、私…」
「そうだ。それも御丁寧なことに僕の目の前で、だ」


倒れていたのならともかく、
目の前で倒れられてしまってはさすがに無視して素通ることもできないからね。
とりあえずうちに運んだのだよ。
言って、目付きの悪い着流しの男性は和書を一項捲った。
目の前で倒れなかったら素通りしていたのか。
それもまたタチが悪いなオイ。


「十四の時に二度と肉体労働はしまいと決めたというのに、迷惑なことだ」


思わずツッコミをかましかけたが、
自らを振り返ってみればおそらく自分もそうしただろうことに思い当たって、
喉の奥へと飲み下しておいた。


「夏の眩暈坂ですのもの、慣れない人は仕方無いわ。
 ほらあの坂は何も無いものだから、一瞬真っ直ぐに見えるでしょう?
 でもその実、道は右に左にと緩く畝っていて、
 貴女が倒れていた辺りはちょうど逆勾配になっていたりするんですよ。
 なのに道幅が狭いものだからどうしたって目線は塀の瓦を追ってしまって。
 だから船酔いでもした気分になるのね。
 今の季節、特に陽射しも強いから目眩を起こしてしまったんだわ」
「はぁ…」
「千鶴子」


私を居間に通すなりそそくさと部屋を後にしたはずの細君は、
気付けば盆に湯飲みを乗せて姿を現し、どうぞと冷たい麦茶を出してくれた。
中身を冷たい麦茶と判断したのは、出された湯飲みが白い湯気を立てていなかったのと、
外温差で飽和に達した空気が凝結して湯飲みの外側を濡らしていたからだ。
しかし会話のタイミングを見計らった見事なお茶出し。


「そういえば君が最初に自己紹介しなかったものだから、
 こちらもまだ名を名乗っていなかったな。
 僕は中禅寺秋彦。これは家内の千鶴子だ」
「あ、すみません。
 です」


ああそういえば千鶴子さんは道マニアだったか、とか。
やっぱり京極堂は千鶴子さんには適わない、もとい本当に愛妻家なんだな、なんて。
そんな思考と感想を両立できる程度には脳の思考能力は回復したらしかった。

───そう、ここが超現実的非現実であることを脳が許容してしまった。


「頂きます」


素直に頭を下げて、白く涼しげな湯飲みに口を付ける。
こくりと一口飲み干す。
喉が潤う。
ふわりと口の中で香ばしい麦の香りがした。
パックのそれとは違うその味。
とても美味しかった。


「貴方がそうして石地蔵のような仏頂面で話すから、
 彼女畏縮してしまっているじゃないですか」
「生憎、この顔は生まれつきだ」


細君の言葉に、器用にも片眉を跳ね上げて旦那は皮肉を返した。
それを受けて細君は「困った人でしょう?」とこちらを向いて笑った。
何とも好ましい夫婦だと思う。
ここで「そうですね」と返したらこの二人は一体どんな顔をするのだろう。
思ったが、思うだけに留めてとりあえずは曖昧に笑み返しておいた。


「ええと…それじゃあもう一度最初から順番に」


下手な事を口走らないように細心の注意を払いながら、
一つ一つ言葉を選んで、辿々しく紡ぐ。


と言います。
 倒れているところを助けて下さってありがとうございました。
 あと…色々と御迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありませんでした」


慣れない正座で、二人に向かって深々と頭を下げる。
この場合、膝の前に指先を付くべきかと考えたが、
結局は両膝の上に手を置いておじぎすることにした。


「僕は中禅寺秋彦。
 これは家内の千鶴子だ」


顔を挙げれば、中禅寺夫妻が揃って穏やかに笑った。



ええもうここまでくれば判るかと思いますが。
このシリーズは中禅寺夫妻に可愛がられたいという私の煩悩の具象物です。
次辺りにあっちゃんとか関口センセとか出したいです。