西日色の露
と 
蝉時雨


「中禅寺さん、一つ質問してもいいですか?」
「何だね」


やはりにこやかに「ごゆっくり」と障子を閉じた細君。
その姿をこちらもへらりと笑顔で見送った後、
とにもかくにも状況を確認しなければという建前の元に、
おもむろに質問という形で主へと会話の続行を切り出した。


「本当に、ほんっとーうにつかぬ事をお聞きしますが…」


ああどうか、親類一同が死に絶えたような仏頂面を突き付けられませんように。


「───今は西暦何年ですか?」


さすがに面食らったらしい。
表情こそ微動だにしなかったが、項を捲る動作が中途にもひたりと停止した。
生唾を飲み下すことも、瞬きすることも忘れてその芥川面を窺う。
すると痩せぎすの古書師は器用にも片眉だけ跳ね上げると、
利き手で顎を一撫で、静かに簡潔に回答を口にした。


「今は西暦1952年だが」
「そう、ですか…」


もう、疑いようが無い。
否、とっくに疑いようなどなくなっていたのだが。

───ここは京極夏彦の小説の世界だ。


「1952年…ということは"逆算"すれば昭和27年…」


痩せぎすの古書師は私の呟きに、『逆算』という言葉に再度片眉を跳ね上げた。

時期的には姑獲鳥の夏の少しばかり手前だろうか。
自分でも、もう少し取り乱すなり何なりあっていいように思う。
しかし現実味が無いのだ。
肌を撫でる夏の湿った暑さも、庭を照らし出す夏の陽射しも、
怪訝そうに構える眼前の隙の無い仏頂面も。
その各々が暑く、眩しく、恐しく。
私にとっては全てがまさに現実なのだ。
嘘臭さなんて何処にも無い。
むしろ現実らし過ぎるが故に、リアリティが得られないのだ。
なぜなら元よりリアルなものにリアリティなど無い。
事実は事実としてそこに存在するのだから現実味もへったくれも無いのだ。
リアリティとは、それが偽物であるとの前提の上で、
本物と偽物とを比べてその落差から初めて生じるもののことを言うのだろう。
此処には偽物から発される嘘の臭い、リアリティなど何処にも漂っていない。
むしろ嘘臭いもの、非現実的なものといえば自分の存在の方だ。

夢なのだろうか。
否、たとえ夢であっても現実であっても同じこと。
それを体験する主体者が私であるのならば同じこと。
全ては紛う事無き事実、真実、現実なのだ。


「───53年、前…」


2005-1952=53。
単純計算、そういうことになる。
私がつい先程まで存在していたのは時間軸上、西暦2005年、平成も17年なのだ。
漠然とした事実を数字できっちりと認識してしまえば、
さすがに目蓋の裏へと薄ら目眩が過った。


「つまり自分は50年先の未来の人間だと、君はそう言いたいのか?」
「言いたいというか…言わざるを得ないというか」


訝しげだ。
ものっ凄く訝しげだ。
凶悪に顰まった芥川龍之介顔に、口元が引き攣りかけてなんとか堪えた。
逃げたいなんて一瞬本気で考えてしまった防衛本能を叱咤し、
内心ずずっと引けた腰を何とか根性で引き戻す。


「無駄とは思うんですが…コレって"ドッキリ"とかじゃないですよね?」
「それが何かは判らないが違うのだろうね」
「ですよねー…」


どこぞの小太りサングラスな芸能人が、
カメラマンと"ドッキリ"と書かれた看板を背負って出て来てくれないものか。
出て来ないだろうなぁ。
速やかに現実逃避を済ませ、腹を括る。
そして玉砕覚悟でもって目の前の仏頂面を視界の中心へと収めた。


「俗な言い方をすれば"タイムスリップ"、になるのかと」


本当はちょっと違うのだが。
"タイムスリップ"というよりはむしろ、"ワールドトリップ"というのが正しいのだろう。
無論、きちんとした定義を知ってるわけではないので深く突っ込まれても困るのだが。


「信じ難い話ではあるな」
「本当に」


思わず自嘲的な苦笑が口元を歪めた。

信じ難いとかそういうレベルじゃない。
『有り得ないことなど有り得ない』と人は良く言うけれど。
実際私もそう思っていたけれど。
『この世に不思議なことなど何もない』とまさに眼前の男も紙の上で言っていたけれど。
現実、私にとっては『有り得ないこと』が今こうして『有り得た』、
『不思議なこと』に見事に出くわしてしまったのだ。

タイムスリップ。
ワールドトリップ。
どちらにせよ、映画、小説、漫画、色んな媒介でそれら触れたことはあったけれど、
そういった類いの話に憧れたことは一度もなかった。
有りもしないことに憧れることこそが楽しさなのだろうと考えていたから。
それ以上先を考えることは、その楽しさを損なう行為だろうと思っていたから。

『人間が空想できることは、実現可能な事象である』。
どこぞのお偉い宇宙開発者の言葉だ。
ああ、おたくの言う通りだったよ。
思い出して、記憶の中も更にはブラウン管の中越しで色褪せた髭面親爺に悪態を吐いた。


「そうだな…」
「はい?」
「まぁ、"嘘は吐いていない"ようだからな」


その一言に、内心冷や汗をかく。
もしかしたら見抜かれているのかもしれない。
確かに私は嘘を吐いていない。
けれど嘘を吐いていない代わりに、本当のことを全て話したわけでもない。


「とりあえずは夕飯にしよう」
「………へ?」
「久々の客人と、妻が張り切って用意しているようだからな」


詳しい話はその後にしよう。
言って古書師は和書をぱたんと閉じる。


「夕飯って…いいんですか?」
「何がだね?」
「いえ、だって…もうこんなに多大に面倒をお掛けしてるし、それに…」
「寄る辺の無い女子を夕刻に追い出すほど僕も薄情に出来てはいないさ」


閉じた古書を山へときちんと戻すと、おもむろに腰を上げる。
そしてそのまま障子に手を掛け押し開いた。
赤橙の西日が射し込む。
眩しい。
目を閉じる。
鼓膜を打つ時雨のような蝉の声。
私の知っている空はこんな綺麗な色をしていなかった。
やはり此処は私の居た場所じゃない。
眼球の奥が不覚にもぐっと熱を持った。


「何にせよ、行く宛は無いのだろう」
「…はい」
「千鶴子」


細君を呼ぶ低く良く通る声色に。
ええと答える楽しそうな声色に。
不覚にも滲んだ言葉尻を、その人は振り返らぬことに代えることで気遣ってくれた。



これでとりあえず、ヒロインの寝床が決まりました(笑)
後はキャラ別に短編を書いていきたいなぁと思ってます。