タブラ・ラサ


「ペテロ」


澄んだ声色に振り返ったそこに居たのは、夜色の瞳が酷く印象的な知己の少女だった。


「む、どうしたのだ、?」
「お昼。一緒に食べようと思って」


そう、このところペテロは彼女の大のお気に入りだった。
何故かといえばおそらく、何につけても大袈裟な彼の言動や行動、
立ち振る舞いが曰く『面白い』ものであると。
自分の理解の範疇にないものに対する知的探求欲の旺盛な彼女の琴線に触れたらしく、
ここ最近、はペテロの元へと良く足を運んでいた。


「そうか。では今日は外へ出るとするかな」


またペテロの方も、妹がいればこんな感じかなどと思っていたりするが誘いに来れば、
特に拒む理由も無いので、快く承諾しては食事やらお茶やらを共にしていた。


「パウラは今ちょっと手が離せないから、今日は遠慮するって」
「ふむ」


そうして時にの保護者的存在なパウラを加えた異端審問局の三人は、
周囲からの好奇の、けれど何処かほのぼのとした視線を集めることもしばしばだった。


「───酷いですね」


そう、一人を除いては。


「私のことは完全無視ですか、シスター・?」


ペテロの横で、実際には全くもって笑っていない、
至極穏やかな笑顔を浮かべたマタイただ一人を除いては。


「別に無視してなんてないけど…」
「局長と並んで歩いていたというのに、
 私には声すら掛けて下さらなかったじゃないですか」
「だって、用事があったのはペテロだけだし」
「…つまり無視したつもりはないと?」


こくりと、小さくだが頷く彼女。
実際のところ、本当に無視した覚えなど彼女には無いのだろう。
ただ用件のあるペテロへと優先的に話しかけただけ。
またマタイに話しかけるだけの用件が無かっただけのこと。

まぁ彼女にとってマタイがまだその程度の存在ということではあるのだろうが。


「用事がなければ、私は貴女に声を掛けては貰えないのですか?」
「普通、用事も無いのに声掛ける?」
「挨拶程度なら掛けますよ」
「挨拶を交わすような仲…?」
「………それに悪意が無いのだからやはり貴重ですよね、貴女は」


貴重、と。
言われた彼女は顔を顰めるでもなく、ただ不思議そうにことりと首を傾げた。
整った顔立ちでの、そのどちらかといえば可愛らしい仕草に、
抱きしめてしまいたいなんてうっかりと延ばしかけた両腕を寸でで堪えるマタイ。
そして、(シスター・パウラが居合わせなくて幸運でした…)と、
誤摩化しなのか何なのか自身でも良く判らないままに、
彼は珍しくも一つ溜め息なんてものを吐いて見せた。


「なら、私を食事に誘っては下さらないのですか?」
「マタイを?」
「ええ」
「誘って欲しいの?」
「はい」


僅かにだが考え込む素振りを見せては、
自分よりも頭二つ分近く高い位置にあるペテロの顔を見上げる。
同時に、彼女の顔とは別方向から注がれる爽やかな殺意の込められた視線に、
(某を睨むな、某を…)と、内心でではあるが、
この猪突猛進な男にしては予想外にも冷静で十分に状況を理解した苦言を吐いた。


「どうする、ペテロ?」
「某は別に構わんが…」
「そう。…ならマタイも一緒にご飯食べに行く?」
「喜んで御一緒させて頂きますよ」


そうして、ちゃっかりの指先を掬い上げて、
口付けなどを落とすマタイの顔にあったのは、
普段から瞳ごと本心を覆い隠すような糸目ではなく。
きちんとその綺麗な双眼を覗かせての、柔らかに細められた両目で。
彼自身も気付いていないらしい、酷く甘ったるく鮮やかなその笑みを見て、
(何だ、ちゃんと作らなくても笑えるんだ)と。
(こういうマタイは好きかも)なんてが感心したことは、まさに神のみぞ知る。


「局長」
「な、何だ」


そして。
普段と何一つ変わらないはずの穏やかなマタイの声に、
戦場でも得たことのないような凄まじいの悪寒を、
背中にダイレクトに感じて思わず声を上擦らせた壊滅騎士イル・ルイナンテが。





「貴方にその気が無いとはいえ、───負けませんよ?」





にっこりと、効果音が付くほどの完璧な笑顔に、
それからしばらくやれ頭痛やれ胃痛と苛まれたことも、やはり神のみぞ知る。



ようやくマタイ登場。
そしてやはり扱いがアレなペテロ。

『タブラ・ラサ(tabula rasa)』とは、端的にいえば連合心理学における、
『人間は白紙の状態で生まれてくる』とし、
生得的な観念の存在を認めないという経験主義の立場のこと。
つまりマタイもそれなりに(それなりって…)人の子なのよー、ということで。(笑)